08/04/26

●『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』(フィリップ・K・ディック)。これはさすがに凄い傑作。特に終盤、「15」以降くらいの、まるで手を緩めないというか、まったく容赦のない展開には、一体どこまで連れてゆかれるのかと途方に暮れた。この小説を読み始めてしまったおかげで、今日はまったく作家論の原稿に手がつけられなかった。随分前に観たきりでうろ憶えだが、リドリー・スコットの映画では確か、アンドロイドの偽の記憶にからめて、アイデンティティーの危機みたいなことが焦点化されていたように思うけど、それはこの小説の重要な点をまったく取り逃がしているように思う。
この小説の、特に後半の部分を読んでいる時にずっと感じていたのは、まるで樫村晴香みたいだ、という感触だった。特に『言葉の外へ』に収録されている保坂和志との対談(とはいえ一方的に樫村氏ばかりが発言している)「自閉症・言語・存在」は、まさにディックのこの小説についての話であるかのようだ。(この対談ではこの小説の、アンドロイドが蜘蛛の脚を切り落とす場面が言及されている。)つまりぼくには、この小説に出て来るアンドロイドというのは、対談で問題となっている自閉症のことであるように思われた。
この小説を、ディックの、人間の共感能力の賛美であるかのように読むのは、あまりに単純すぎる。ここでは、高度な知能をもったアンドロイドが共感能力を持ちうるか、ということが問題になっているのでさえないと思う。ここで問題にされているのは、人間が(ほとんど遺伝的なレベルで)共感能力(=転移=感情=愛)の働きに支配されてしまっていて、決してそれを越えることのできないことの「どうしようもなさ」こそが問題となっているとしか思えない。ここに出て来るマーサー教が、すべてインチキのまがいものだったとしても、人間にとってはそのインチキこそが真実であり、人はそのインチキを真実として生きる以外に仕方がない、というような感情こそが、この小説の根底にあるように思われる。アンドロイド=自閉症とは、そのような共感能力の支配から自由である存在であって、純粋に悟性によって生きることの出来る者であり、そうであるがゆえに、共感=愛/憎しみ=転移のなかを生きるしかない人間にとって、最大の脅威であり、恐怖であり、また、そのことによって魅惑されるものでもある。
(レイチェルがリックの山羊を殺すのは、自分と同形のアンドロイド、プリスを殺されたための「復讐」でさえない、ということがリックをはげしく消耗させる。その行為が「人間」の外にあるものだからだ。しかもリックはレイチェルに少なからず惹かれている。だが、この感情にはそもそも届け先がないので、愛も憎しみも生じることが出来ないのだ。もしレイチェルの行為が愛=憎しみの作用としての復讐であったとすれば、それはリックにも理解可能なもので、レイチェルに対してなんらかの感情を作動させることができる。しかし相手がアンドロイドであり、そのような感情の受け止め手には決してなり得ないことを、リックはそこまでの経験から思い知らされている。感情は生まれても、その届け先がない。ルーパ・ラフトに感情移入出来、その死を悲しむことが出来た小説の中盤では、リックはまだ「人間の外」をみておらず、幸福であったとさえ言える。)
愛とはつまり、他者の存在によってしか自分の存在の確認(実感)をもつことが出来ないということであり、その時、その他者(相手)もまた、自分同様に、他者の存在によってしか自己確認できない存在であることが必要とされる。愛と憎しみ、共感と反感、転移等の機能は、そのような相互作用のなかで生じる。愛の機能があるのは人間だけではなく、おそらく、つがいをつくり子供を一定期間養育する必要のある哺乳動物一般に遺伝的にセットされた機能であり、それは地球上での長い生存競争と進化の過程で獲得されたもので、その作用は非常に強力なものだ。だからこそ、何らかの理由でこの機能を失調させている者は、人間にとって自身の存在そのものを危険に晒すような脅威として表象される。
フロイトは、ナルシシズム神経症(ある種の精神病)では、転移が成り立たないから、精神分析が有効ではない、と言っている。つまり精神分析は基本的に愛の作動によって成立する技法であり、しかし人間においては、その愛を作動させる無意識が「言語のように構造化されている」ために、それは言語を媒介として行われる。だが、それは基本的には動物的な愛の作動なのだから、分析医の身体的現前(愛の対象)がなければ発動しない。想像的=動物的次元を媒介として、象徴的=言語的次元を動かそうとする。そこで、分析医の身体的現前(愛の対象)への転移が起こらない場合には、そもそもその技法は有効に働かない。つまりそれは「人間の外」を扱えない。
この小説が扱っているのはおそらく、人間が、人間の外にあるものの感触にいかに耐えられるか/耐えられないか、ということであろう。あるいは、人間の外にあるものに対して、いかに対処することが可能か/不可能か、ということだ。
(純粋な悟性として作動するアンドロイドのバスター・フレンドリーは、マーサー教がまがいものであることを「正しく」指摘するし、人間であるリックの悟性も、マーサー教を信じることが「正しくない」こと、さらに、アンドロイドを殺すことが「正しくない」ことを認識するが、同時に、人間には他にやりようがないこともまた、認識せざるを得ず、それを行うしかない。)
樫村晴香は上記の対談で、『ひとりぼっちのエリー』という自閉症の娘について母親が書いた本を、次のように語る。
《で、この『エリー』という本ですが、確かに自閉症の症候を正確に記述している。しかしこれが優れているのは、それが母親によって書かれた、つまり母親というもう一つの症候を実は記述し、しかもその母親が、自閉症という自己とは異質な存在、症候と出会い・記述・認識する過程で、自ら加工し直していく過程が描かれているからだ思います。》
《この天使は、母親が子供にもつナイーブな「同類-人間」の基準にとっては、動物、というか機械なのです。(略)母親は愛の力を信じますが、次第に、天使は動物で、愛も他人も必要ないこと、それどころか、完全に幸福で、それ自体で満ち足りていることを認識します。不幸なのは母親の方であり、関係を求めているのも、母親なのです。そしてそれを知った上で、彼女はなお、この満ち足りた存在をこちら側の世界に引き入れる押さえがたい欲求を自覚する。それは愛というより、暴力の行使で、エリーのためというより、自分のためです。つまり相手のための行為・存在として自己を信じていた幻想の破壊と共に、自分の方こそ本当は動物であることが認識され、しかもなお、その愛情は動物的なものとして肯定される。これは大きな、認識論的変更です。》
ここで、《他人》を《必要ない》というところ、《それ自体で満ち足りている》というところが、同類を必要とするこの小説のアンドロイドたちとは多少ニュアンスが異なるのだが、それ以外は、ほぼエリーとアンドロイドたちは同じ位置にあり、ここで言われている「母親」の位置に置かれているのがリックであり、そしてこの小説の読者である、と言えるように思う。
●この小説で、脚を切られるのが蜘蛛であり、最後に出て来るのがヒキガエルであることは、実際に飼われている(象徴的な意味をもっている)電気羊や山羊などよりもずっとリアルであり、強い印象を残す。あと、レイチェル/プリスというのは、ほとんど綾波レイだなあと思った。