●本の見本のうち一冊をもって、「組立」展の会場、masuii R.D.R galleryへ行く。見本として、会場に一冊置いておくので、発売(書店に並ぶのは25日以降)よりはやくブツを見たい人は、展覧会場で見られます。(25日以降は、ギャラリーでも販売する予定。)
『世界へと滲み出す脳/感覚の論理、イメージのみる夢』の「はじめに」より、一部引用します。
《ここでは、そのように、呼んでもいないのに繰り返しあらわれてくる「何か」の捉え難さのことを、とりあえず「イメージ」と呼ぶ事にする。イメージは、決してその「何か」そのものではなく、その「何か」が存在することの証であり徴であり影である。樫村の引用の言い方を借りるとすれば、ローカルな回路では頻繁に生じている《太陽がいつもと違って異様に見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような》経験があり、しかしそれは常に《より広域的なアルゴリズム》=《世界への想像的な信頼‐幻想、他者への依存的な対象関係》によって補正-圧縮されているのだが、補正-圧縮された後にもまだ微かに残留している、ローカルな記憶回路の経験の残り香こそが「イメージ(感覚の質)」ということになろう。そして「何か」とは、そのようなイメージを繰り返し召還する力動そのもの、あるいはその力動を起こさせるもののことだろう。(この「何か」を、例えば外傷とか、エラン・ヴィタールとか、あるいは現実界とか、そのような言葉を使って名指す事は、ここでは慎みたい。)》
グリーンバーグの言っていることは要するに、解決を先送りにして緊張状態を維持しろ、ということであり、常に狂気の気配に触れながらも、狂気そのものには落ち込むな、ということであろう。《より広域なアルゴリズム》を脱臼させつつも、ローカルな回路に身を預け切ってしまうな、と。グリーンバーグの直系であるフリードが、作品に複数のシンタックスが重なり合う構造を見いだしながらも、それが恩寵として、一挙的に観者に与えられるのだという矛盾したことを言わなければならなかったのも、その一方のみを強調すれば、すぐさま緊張状態が解決されてしまうからだろう。構造を読み取るには時間がかかるが(あるいは決して読み切れないが)、構造自体は時間の外にあるものなので、それをリニアな時間のなかにひらいてしまうと、すでに構造は失われ、たんなる形態の氾濫となってしまう。その時は既に《世界への想像的な信頼‐幻想、他者への依存的な対象関係》に支配されてしまっている。だから、作品は時間をかけて(時間の内部で)観るしかないにもかかわらず、それは時間の外で把握されるしかない。その時、時間と空間は変形(歪形)されなければならないだろう。この本で問題にされる「イメージ」の経験とは、そのような困難のなかでのみあらわれるものだし、この本のモチーフは、そのような困難のなかでしか掴まれないものを掴もうとすることだ。》
以上、こんな感じのことが書かれている本です。
●なお、樫村の引用とは、下記です。
《そもそも科学的にみれば、同一性(異なる入力を一つの記憶内容として出力すること)とは、並列分散的な神経網の産物ゆえに、原理的には確率的‐熱力学的にしか作動せず、局所的な作動域では、常にソジー錯覚的な疑似記憶(同じ入力に異なる諸出力が応じ、逆に異質な諸入力に単一出力が応じること)が生じるはずである。程度の差こそあれ、太陽がいつもと違って異様に見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような、シュレーバーの体験は、ローカルな記憶回路ではおそらく常に生じており、それを補正‐圧縮するのは、より広域的なアルゴリズムで、それは世界への想像的な信頼‐幻想、他者への依存的な対象関係に帰属する(ないしそれと同値である)と思われる。(ドゥルーズのどこが間違っているか?/強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点)》