『天然コケッコー』(くらもちふさこ)を読み終わってしまった

●『天然コケッコー』(くらもちふさこ)を読み終わってしまった。すっごく面白かった。世界の隅々にまで配慮が行き届いているというのか、密度がみっしり詰まっている。例えば、松田先生の結婚式の場面で、おそらく全編で一コマだけ登場するシゲちゃんのお父さんの顔が、まさに「シゲちゃんのお父さん」だというしかない絶妙の素晴らしい顔をしている、とか、これもまた、全編で一コマだけ、大沢がメガネをかけてみるコマがあり、それに対してそよが、メガネかけるとじいちゃんそっくり、とか言うのだが、そのコマの大沢は本当にじいちゃんに似ている(それまでは、大沢とじいちゃんが似ているとはまったく意識していなかった)。
そういう「細かい」ところだけではなく、例えば、山口遥や田中比世子といった登場人物は、その人物が最初に出て来た一コマ目で、「ああ、こういう人いる」と納得させられてしまう「顔」をしている(最強なのは何といってもシゲちゃんだけど)。田中比世子などは、最初の一コマで、正確にその人物像を提示しながらも、その後の展開で、そこには納まらない膨らみも付与されている。あるいは、最後の方で、東京に行ってしまった大沢のいない村の様子が、猫の行動に沿って描写される回では、それがたんに表現上の技巧やアイデアとしてだけ冴えているのではなく、単純に、猫の描写としても素晴らしくて見入ってしまう。
短編連作みたいにして、様々な人物のエピソードを重ねて世界に厚みを出しつつ、ある呼吸で、大沢とそよの関係の進展へ、ダーッと入り込んで行く構成も、巧みというか自在というのか、これは計算されているというより、冴えていると言った方がいいように思える。特に、大沢の浮気問題が浮上した後、一転場面が過去に戻り、火の見やぐらが出て来る展開は天才的だと思った(エピソード的にも、空間の上方への拡張という意味でも)。そよが、さっちゃんとカッちゃんに導かれて火の見やぐらに昇り、その上から大沢に声をかける場面とか、おおーっと思った。(この後の海岸でのキスに至るまでの流れもすごい。)空間的な上下の使い方という点では、その少し後にある、地域振興券で天波屋に買い物にゆくという、割と傍系的なエピソード(この回は、ぼくはかなり好きなのだが)での、階段の場面にもはっとさせられた。(こういうことを書き出すときりがなくなる。)
登場人物の造形という意味では、主役の二人がもっとも単純というか、平板であるように思える。周囲に配置される脇役の人物たちの誰もが皆、非常に丁寧に厚みをもって描かれているのに対して、二人はあまり深い陰影のようなものは宿していない。ぼくには、大沢よりも、浩太郎や宇佐見の方が面白いし、そよよりも、あっちゃんや伊吹ちゃん、田中や遠山の方が面白い。だが、主役の二人は、その単純さによってこそ、主役という特権的な位置にいることが出来るのだろう。おそらくこの作品では、主役の二人だけが、実際にはあり得ない人物なのだ。この二人は、実在する人物であれば否応なくもってしまっているはずの、陰影や屈折をあまり持たないように思われる。それによって、この二人は周囲のリアルな人物たちから離れて、特権的な関係をもつことが出来る。
このような言い方はしかし、あまりにも粗雑ではある。そよが、大沢との関係のなかでもつ様々な感情の揺れや、それにともなう成長は充分以上にきめ細かく描きだされているし、リアルであろう。例えば、そよが、ある時ふっと男性との関係を鬱陶しく感じる場面など。しかし、そよが大沢に対してもつ感情の揺れは、あっちゃんや遠山が大沢に対してもつ感情や、田中がそよに対してもつ感情、あるいは、宇佐見が、もしかしたらもっているかもしれない、大沢やそよに対する感情、のなかに含まれる、屈折のようなものを含んでいなくて、ある単純な「健康」さのなかにあるように思われる。この(実際にはあり得ないかもしれない)「健康」さが、この作品の肯定的な力となっているように思う。
この作品で、登場人物に対する作家の眼差しは容赦がない。オブラートに包むということなしに、かなりえげつなく描いている。しかしすごいのは、容赦がないということが、少しも意地が悪いということに繋がっていないところだ。この作品の上品さは、そこに支えられている。(容赦のない描写が、何かを暴き立てるような意地悪さに繋がるのは、実はかなり安易なことだ。)そよは、八方美人的な性格を有していて、誰に対しても否定的な態度をとることが出来ない。しかしそれは、たんに誰に対しても良い顔をするというようにことだけではないと思われる。
例えば、遠山や田中といった人物像を、もっと露悪的に描くことは、実はかなり安易なことなのだ。しかしそれをせず、かといって、甘いお話として適当に誤摩化すこともない。容赦なく描くことこそが、その人物を肯定することに繋がる。作家のこのような上品な態度が、そよの態度を、偽善的でも自己愛的でもない、肯定的な力にするのではないだろうか。