●渋谷のシネマ・ヴェーラで、吉田喜重『美の美』(ボッシュ編、ブリューゲル編、カラヴァッジョ編、ゴヤ編)。
吉田監督がこのシリーズで撮っているのは、美術作品(絵画)だけではなく、ヨーロッパの堅牢な石の建築物であり、そのなかでやわらかくひろがる木々の緑であり、ゆらゆらとゆらめく水の表情であり、街を行き交う人々の姿であろう。絵は、フレーム全体が示される時間は少なく、ほとんど、部分から部分へと視点が移動してゆき、例えば、ブリューゲルの雪のなかの猟師を描いた絵には、雪を踏みしめる足音、銃声、犬の鳴き声などかかぶせられる。そこではもう、絵は絵ではなく、建築物や水と同等の、映画の被写体の一つであり、映画に奉仕させられている。
別に、そのことを非難しようというのではない。ここで示されているのは、絵と映画とはまったく異なる、相容れないものだという事実だろう。『美の美』が面白いのは、美術を扱ったドキュメンタリーとしてではなくて、たんに映画として面白いということなのだと思う。あるいは、絵と映画とが、ほとんど重なりあうことがないという事実が示されているところが面白いのだろう。
ナレーションは、画家の生涯について語り、その画家が置かれた歴史的な位置について語り、作品の解釈について語るのだが、その語られる内容は、示されている映像とかならずしも一致しない。ボッシュの生涯についての語りの内容と、彼が生まれたとされる、オランダとベルギーとの国境近くにある街の(撮影当時の)現在の風景とは、ほとんど関係がない。街のなかをはしる小さな水路、そこでの水の表情、自動的に跳ね上がる現代的な跳ね橋、水路をゆく船。それらは、ボッシュについて語られる言葉とも、それを語る吉田監督の声や口調や言い回しとも無関係に、それぞれ別の流れとして示されている。観客は、ボッシュの生涯についての解説と、それを語る吉田監督の声や口調と、水路をゆく船の映像とを、同時に、それぞれバラバラな系列として受け取る。
映画に撮られた絵を見ていると、映画というものが、いかに時間という先制的な形式に支配されているのかということを強く感じる。そして、そのような時間の先制から逃れるために、リズムの異なる複数の系の同時進行が要請されるのだと思われる。
ボッシュ編で、ボッシュの代表作のあるヴェニスを訪れたカメラが、今まで繰り返し映し出されてきた、水面、水路、跳ね橋、そこをゆく小さな船、という主題系からふっと飛躍して、唐突に、海をゆく大きな船が、フレームいっぱいの大きさをもってフレームを横切るのを捉えたショットを目にする時、おおーっ、と思い、このいきなりな侵入こそが映画なのだなあ、と思うのだった。