●『カツラ美容室別室』(山崎ナオコーラ)。面白かった。この作家の、ディテールの創出や物語を語る闊達さに関する希有な才能や、人に強い緊張を強いる程の、関係を追いつめて行く生真面目さには、いままで読んだ二つの作品(『長い終わりが始まる』『論理と感性は相反しない』)から、既に強いインパクトを受けていたのだが、この『カツラ美容室別室』では、その前者の才能が十全に発揮されていると思った。
とにかくこの小説の展開は、まるで優秀なスポーツ選手の動きをみるようで、事前にはまったく予想のつかなかった意外な動きにみえるものが、事後的にみれば、それ以外に考えられないと納得させられる合理的な軌跡を描いているのだ。ほぼ、全てのページに、「えっ、そうくるの!」という、意外で新鮮な展開が用意されつつも、それが、たんに読者の興味を引っ張るためだけのサービス、意外性のための意外さではなく、まるで綱渡りのように、それ以外にあり得ないという絶妙な細い一本のラインの上を、一歩も踏み外す事なく正確に進んでいくことの結果によって得られた「意外さ」であるようにみえるのだ。自在に伸縮するリズムと、常に予想外の方向へと転がる展開の新鮮さにつられて、一気に最後まで読まされた読者は、読み終わってみて改めて、この小説が、これ以上何かを付け足す必要も、差し引く必要もなく、つまり余計な部分も足りないところもなく、はじめからこうであることを宿命づけられた形で存在しているかのような、ゆるぎない感じを受けることになる。
しかしそれは、事前にある「ある理想的な形式」に、この小説がぴったりとあてはまっているということではない。この小説によって感じられるゆるぎなさ、これしかないという感じは、形によって得られるものではなく、あくまで「動き(展開)」によって得られるものなのだ。動きのゆるぎなさは、実際に動き出す前にあるものではない。そしてある動きは、常に周囲の環境との関係、ある力の作用に対する反作用、アクションに対するリアクションを測ることなしに、次の動きを決定することは出来ない。一つの動きはある反応を生み、その反応を受けることによって次の動きが押し出されるように決定される。だから、既にあるモデルを模倣することとも、事前に用意された、いつくかの可能な選択肢のなかから何かを選択するということとも異なる選択ならざる選択、様々な作用と反作用との反響のなかで、つまり、無数の必然性の重なりのなかで、ふいに開かれる、意外性としての自由さが、「動き」として実現されているかのようなのだ。「えっ、そうくるの」という意外性であるのと同時に、「それしかあり得ないよなあ」というゆるぎない運命であるような展開。綱渡りの一本の細い綱は、あらかじめそこに張られてあるのではなく、「一歩も踏み外す事なく進んで行く」その「巧みな歩み」という行為によってこそ、逆に創出されるのだ。その都度つくり出される、ひとつひとつの具体的なディテールの積み重ねこそが、一本の細い綱を出現させる。この小説の事態の進み行きは、そのようなものとしてある。
しかし、このような見事な動きは、ただ黙っていて得られるものではないだろう。それには、それを実現出来る巧みなフォーメーションが、事前に仕組まれている必要があるだろう。つまりこの小説の絶妙な動き(展開)は、その絶妙な登場人物の配置によってこそ可能になっているように思う。主人公であり話者であるオレ(淳之介)は、普通に会社で働いている。つまり、この小説で描かれる範囲の外にも、広い交友関係をもっているはずであるのだが、この小説では、その部分はカットされていて、ほぼ、エリちゃんとの関係にだけ関心があるかのようになっている。一方、エリちゃんにおいて、その関心の中心は、職場(桂美容室別室)における、桂さん-桃井さん-エリちゃんという関係、つまり、桂さんをめぐる桃井さんとのライヴァル関係(さらに、桃井さんとエリちゃんには、海どうくんという男性をめぐるライヴァル関係もある)や、桂さんとの愛憎入り交じった緊張をもった関係にこそあり、エリちゃんにとって淳之介との関係が貴重なのは、淳之介が職場における関係の力学からやや距離を置いた場所にいる存在であるからのようですらある。(そして、このどちらの人物とも関係のある、不思議な人物として梅田さんがいる。梅田さんがいなければ、この小説は成り立たない。)
この小説の中心にあるのは、あきらかに淳之介とエリちゃんとの関係であるのだが、淳之介は(小説内では)主にエリちゃんとの関係に興味がある(かつ、話者であり、その心のなかが読める)のに対し、エリちゃんの関心は淳之介にだけあるのではない(かつ、心のなかが読めない)という、関係の非対称性が仕組まれていること、しかし、淳之介はエリちゃんにことばかり考えているわけではなく、小説のフレームの外に、別の広がりの関係(会社)をもっていることが匂わされている(そこまでは読者は知ることが出来ない)こと、二人の関係の間に、神出鬼没に梅田さんが介入してくること、などによって、きわめて狭い範囲の関係だけが描かれているのにもかかわらず、この小説では、その関係のあり様や距離の伸縮やニュアンスの変化において、「動き」を発生させる余地(スペース)がとても広くとられているのだ。このような巧みな幾何学的フォーメーションこそが、この小説のすばらしい動き-展開を生む元となっているように思われた。勿論、配置だけが良くても、それを実際に動かす作家の筆の冴えがなければ、元も子もないのだが。(どんなに一流の選手をあつめ、的確に配置したとしても、それが機能するかどうかは、実際に動かしてみなければ分らない。)