●昨日観た、photographers' gallery+IKAZUCHIの大友真志の「姉」を撮った写真(http://www.pg-web.net/home/current/current.html)について。
●ソファーに座る女性。向かって左手に窓、後方にドアがある。同じ場所、同じ人物(おそらく)の二つの時間。一方は、黒いタートルネックのトレーナーの上に、赤いVネックの服を重ね着している。おそらく、寒い時期。もう一方は、薄い緑というか、薄いエメラルドグリーンのような色の、半袖の服を着ている。おそらく、暑い時期に撮られた。窓からの光りの射し方は、どちらもほぼ等しいように思われた。どちらもほぼ同一のポーズ、手元の指輪も、同じものと思えた。
●モデルは、カメラを、または、撮影者を見ている。カメラとモデルの距離、位置関係、角度等が、微妙に異なる複数枚の写真が展示されている。モデルの視線は、撮影者の位置の変化を追っているようでもある。つまり、写真を観る者は、モデルを観ると同時に、撮影者を見るモデルの眼差しをも観る。
●二つの時間の対比と、一つの時間のなかの変化。photographers' galleryの展示では、二枚の寒い時期の写真、三枚の暑い時期の写真、二枚の寒い時期の写真という順番で並べられ、観者の観る位置によって、二つの時間が対比的に目に入ったり、一つの時間(同じ服)のなかでの、時間のズレが目に入ったりするように、展示されていた。
同じ場所、同じ人物の異なる季節の写真。そこは同じ場所であろう。カーテンも、ソファーにかかるカヴァーも、後方のドアノブやハガキ入れも同一であり、ソファーに座る人物も、その髪型も、ポーズの感じも同一である。だが、そこに写るモデルの表情は、微妙に異なる。寒い時期の写真に比べ、暑い時期の写真では、やや、目元に疲れが感じられる気がする。そこで感じられる、同一性(同じ場所、同じ人物)と、差異(異なる服、ことなる表情)との微妙な感触。
同じ時に撮られた複数の写真では、まず、撮影者とモデルとの微妙な位置関係の変化が感じられる。撮影者は、ソファーにすわるモデルを、(おそらく)立って見下ろすような角度で撮ったり、座って、ほぼ同じ目線の高さで撮ったり、やや向かって右寄りの位置から撮ったり、正面から撮ったりしている(向かって左側には窓があり、左寄りからは撮れない)。モデルも、ほぼ同じポーズをとりながらも、手の位置が少し動いたりしている。
一方、IKAZUCHIの展示では、複数の写真の連続性や差異よりも、それぞれ一枚、一枚として観られるような展示になっていた。
●モデルは、常にカメラの方を見ており、自身が撮影されていることを意識している。ソファーに座り、膝の辺りで手を汲んでいるポーズは、撮影を意識してとられたポーズであろう。しかし同時に、そこはモデルにとって親しい場所であり(おそらく実家?)、撮影者はモデルにとって親しい人物(弟)である。そこにはリラックスした雰囲気がある。撮影されていることを意識したある種の堅さと、そこが親しい場所であり、撮影者が親しい人物であることからくるリラックスした感じとが微妙に混じり合い、モデルから、写真に撮られることによってしか浮かび上がることのない(肉眼では見ることの出来ない)、不思議な表情を引き出しているように思われる。観られることを意識した、ある制御の感覚と、そこからこぼれ落ち、滲み出してくる制御不能なある表情。ここには、撮影者とモデルとの関係が写っているのと同時に、それ以上の何か、モデルの身体のある無防備なあり様やたたずまいが、写り込んでしまってもいる。
●写真に写っているのは人物だけではない。そこに射して来る外からの光り、ソファーの木製の手すり、ソファーにかけられたカヴァーの布、窓枠とカーテン、後方のドアとドアノブ、そこにかかっているハガキ入れ、モデルの着ている服、手元の指輪、等が写り込んでいる。非常に狭い、限定されたフレームであっても、そこに写り込んでしまう雑多な物たちは、その場所のあり様を示してしまう。おそらくそこは、人の住む場所であり、モデルにとって親しい場所であり、モデルはそのような場所に座っている。目は、そのことを一瞬にして感知する。
これらの写真を、人物を撮った写真だと言い切ることは出来ない。ソファーにかかったカヴァーや、人物の背景にあるドアノブは、時に、人物以上に強い存在感を示す。あるいは、人物の着ている服の、色や模様や表情は、人物に属し、人物の雰囲気を作り出すのと同時に、カーテンやドアノブのように「物」の側にも属している。写真は、それを撮影する人の興味や関心や欲望、あるいは、撮る側と撮られる側との関係を映し出してしまうのと同時に、それとは無関係に、あらゆる「物」を同じ次元に並列させ、同じ強さにして並べてしまいもする。この両義性。
●あるいは、これらの写真から感じられる、抑制された色彩の響きのうつくしさや、光りの感触の美しさ。時に、絵画的に決まったフレームをもち、時にそれをふっと外してみせたりもする、そのフレームのやわらかさ。そういう次元でみても、とても面白くて、うつくしい。
●言葉の次元で処理すれば、たんに、家のなかのソファーに座る姉を撮っただけの写真が、それを観る者が受け取り切れなくて溢れてしまうほどの様々なことがらを発してしまっていることにたじろぎ、それをどう処理してよいのかわからなくなってしまって、うわーっ、という感じになる。これらの写真を観るという経験とは、そのようなことなのだと思う。