●『ヘーゲル精神現象学の研究』(樫山欽四郎)の、最初の方をちょこっと読む。樫山の描き出すヘーゲルは、ぼくがジシェクなんかを通してなんとなくイメージしていたヘーゲルとはちょっと違う感じだ。
精神はまず、素朴に実体的な生との和解と満足のなかにあり(まあ、動物的な生というやつだろうか)、それが《自ら他者となる》作用である反省によって乗り越えられる。そこで分離された、自分自身(実体的な生)と自ら他者となること(反省)との二極を、ふたたび重ね合わせるための媒介が「直感」である。このように、実体-反省-直感と発展してゆくのが、ヘーゲルが整理した「現代哲学」のあり様であり、ここに、スピノザもカントもフュヒテもロマン派も含まれる。それに対しヘーゲルは、直感(充実)において二極が直接媒介されるというのでは、限定(否定)の作用が軽んじられるため《自らの中での内容の偶然性が放任される》ことになってしまうとする。そこでヘーゲルは、「直感」ではなく「主観」という媒介をたてる。主観は、純粋に否定性としてのみはたらく媒介であり、しかし媒介であると同時に実体でもあるようなものである。そして、主観は、実体と反省とを決して一致させることなく、否定(形式)を媒介として分離したままで繋げる。
ぼくが書く、このような要約は面白くもなんともないが、主観が、媒介であると同時に実体でもあることを、ほとんど要約不能で無理矢理な感じで記述する、以下に引用する部分がとても面白かった(まるでリンチの映画みたいだ)。
●《が、大切なことは、実体が自己の否定(自己分裂)において自己に帰るという考えそのものが、実体を主観と考えることにおいて、初めて成り立つということである。だからそれは、実体が実体として対象化されることにおいて成り立つ理論でないことは明らかである。したがって、実体と主観の対象的客観的一致ということが、言われているのでないことは明らかである。そう考えるとスピノザ主義になって、実体的生にかえってしまう。むしろ、実体は既に主観であることにおいて初めてそれであると、考えられていると見るべきである。このことは実体と主観というふうに客観的対象的に考えられたときには、既にその意味を失ってしまう。実体とは何かと問われることにおいて、既に実体は主観の場にいたことがあらわになるのである。が、このことは実体が自己否定に陥っていることを意味する。つまり、実体はいわゆる実体ではなくなっていることを意味する。それに抵抗することにおいて実体が自己自身であろうとする。がそのことは、実体が既に自ら自己否定を含むことにおいてのみ、成り立つことを意味する。ということは、実体が主観においてのみ実体であることを意味する。実体は自己の否定においてのみ自己であることを意味する。実体は主観なしには実体であり得ないことを意味する。実体が実体であるということにしても、既に実体において主観が読みとられる限りにおいてである。このことを思惟と実在の一致(スピノザ的に)という形で表現するならば、それは正しいと同時に間違っている。一致という点では正しいが、別個に並立するものの結合という点では正しくない。別であるということの自覚において、別でないことの既に成り立っている場、が見られねばならない。否定を含むことにおいて、初めてそのものであることになるのでなければならない。だからその一致の場に直感を通じて立つことを拒否したのである。というのは直感の立場には否定の契機がないからである。実体が主観であるというのは、いきなり、ぶっつけにそうなるのではない。実体が実体であるのは、自らの否定においてなのであるが、このことは、既に実体が主観において初めてそれであることを語っている。と同時に、主観であることによって初めて、実体はそれでありうることを意味する。そのとき初めて実体は否定の契機を含むものとしてあり得る。》(一「実体-主観理説」p26-7)