●『ヴィレッジ』(M.ナイト・シャマラン)をDVDで。これは、シャマランのなかではかなり好きだ。シャマランは、変で、憎めない。これを積極的に「面白い」とは言えないし、シャマランの新作をわざわざ劇場まで観に行くかどうかは分からないのだけど。いや、実は、もうちょっとで、つい、面白いと言ってしまいそうにもなるくらい、これはけっこういい。これを面白いと言ってしまってよいのかという躊躇は確かにあるし、シャマランを悪く言う人の気持ちも分かるのだけど、シャマランの作品と、それを悪く言う人の言葉とを並べてみると、悪く言う言葉の方が、どうしても偏狭だと感じられてしまうという、不思議な魅力がシャマランの作品にはある。
『ヴィレッジ』は、物語の軸というか、作品のキモとなる部分が、どんどんずれ込んでいってしまう(いろんなことがきちんとしていなければ気が済まない人には、この感じこそが許せないのだろうが)。最初は、ファンタジー風のホラーなのかと思っていると(怪物の姿をけっこうあっさりと見せてしまうところがシャマランなのだが)、それがいつの間にか、閉ざされた異様な(秘密めいた)環境での極度に抑制された人間関係と、異様な環境のなかで奇跡的に生まれた、ある純粋な強さを持った二人の人物の関係のドラマみたいになってくる。これもまた話としてはベタではあるが、ここでの二人の関係(というか三角関係)を描きだす描写はとても魅力的で、シャマランがいきなりヨーロッパ風の芸術映画をつくってしまったのかとも思う。そしてそれがまた別の位相へとずれ込んでしまう。
家の前を掃除していた姉妹が赤い花を見つけてしまい、それをあわてて土に埋めるシーンは、それだけでこの映画にとって「赤」が不吉な色であることを充分に表現していて素晴らしいし、それだけでなく、この映画全体の赤や黄色の使い方はかなり良いのではないか。しかも、赤の不吉さをあんなにも見事に表現しながら、その不吉さそのものである怪物があんなにチャチなデザインで、しかもそれをすんなり薄っぺらく見せてしまうのがシャマランの不思議さなのだが。気配(サイン)を演出する見事さと、実物を示す時の薄っぺらさの乖離(肩すかし感)はシャマランの特徴であるのだが、それと同時に、この映画では物語的なテーマとも結びついている。
村の年長者たちの雰囲気、最初に姉がふられて、その後に盲目の妹を出して来る展開、度胸試しや結婚式の描写、村と森との境界線を示す柱と黄色い布、等、この映画の村の描き方は大変に魅力的で、もしこの映画が、結婚を決めた男が嫉妬で刺されてしまうところで終わっていたら、普通に(アートっぽい)傑作になってしまっていただろう。服の皺をやけに気にする男みたいな、いつものシャマラン的な変な人物も面白いし、盲目の妹が、男の「色」が見えると言うのに、その色がどんな色かは最後まで「言わない」とか、そういう細部も面白い。きわめてベタだけど、怪物がうろついているのに、男が来てくれるのを確信してドアをあけたままでいる女のところへ、男の手がすっと伸びてくるシーンも、説得力がある。何より、この盲目の妹の役をやっている女優が素晴らしい。
しかし、男が刺され、女が薬を得るために禁断の森を抜けて行くことになる辺りから、映画は急速にしょぼくなる。そこでは村の秘密があかされ、村の神秘が実は薄っぺらなからくりによるものだと示されるのだが、それと同時に、映画そのものも物語と同期するように薄っぺらになるのだ。女が森を抜けて行く時の一連のシーンは、たんに演出としてしょぼい、失敗しているというだけでなく、ここでは、シャマランが何をしたかったのか分からない、まったく方向を失ってしまったとしか思えない画面がつづくことになる。もう既に謎は暴かれ、神秘の森はたんなる森に成り下がり、森が障害になるのは、ただ彼女が盲目であるからで、村では、ある種の「特別な存在」の徴でもあった目が見えないということが、ここではたんなる機能の障害であり、彼女は既に特別な「強さ」をもった人物ではなくなっている。そのことを、映画としての表現の質で示すのではなく、彼女が力を失うと同時に、作品そのものも力を失ってしまうという混乱によって(図らずも)示してしまうところが、シャマランの困ったところであり、面白いところでもある。
しかしこれは驚くべきことではないだろうか。シャマランの映画ではいつも、世界は完璧に閉じられていて、登場人物は、人物であるというよりも(閉ざされたフレームによって要請された)「役割」である。しかしここで女は、村から出て森のなかに入ることによって、役割を失って、ただの人として、ひたすら頼りなく存在する。彼女は、図らずも、森のなかで、男を刺した者に復讐をすることになる。おそらく村の内部にいる「強い」彼女であれば、刺した者への怒りや復讐心を抑制することが出来るはずなのだ。しかし(「作品」としてもきわめて「弱い」質しかもたない)森のなかにいる弱い彼女は、自らの「弱い」部分を抑制できない。
さらに驚くのは、彼女は、世界の外がないはずのシャマランの映画で、外にあっさりと出てしまうのだ。(ネタバレだが、18世紀か19世紀くらいの話だろうと思っていたのが、実は現代の話だったのだ。つまり彼女は、ほとんど時間の外へ出てしまっている。)そして女は、世界の外で、村の秩序とは何の関係もない、ただの(普通の)男と出会い、会話をする。普通といえば、ごく普通の場面なのだが、シャマランの映画でこういうことが起きると、おーっと驚いて、それだけで感動してしまうのだった。ここに至るためにこそ、しょぼい薄っぺらさを通り抜ける必要があったのだ。これはかなり凄いことではないだろうか。