●池袋のシアターグリーンで、弘前劇場『休憩室』。とにかく、時間と空間とをぎっしりと充実させている、という感じ。複数の系が同時に出現し、そのそれぞれが、絡まったり、途切れたり、また現れたりして、時間的展開としても、舞台全体の空間としても、濃淡があり、緩急があり、凝縮があり、拡散がある。決してひとつのテーマや流れに収斂されることなく、常におおくの主題が同時に存在し、それぞれがそれぞれに展開したり、途切れたりする。その作り込みには隙がなく、リズムもきびきびとして緩むところなく、一時間半くらいの上演時間の間、少しも飽きるところがない。とにかく、観ている間は、その充実に押されて、すごく面白いと思った。
ただ、これはほとんど言いがかりのような言い方になってしまうのだが、観てから時間が経つにつれて少しずつ、ここまで「充実」させてしまうのはどうなんだろうか、という疑問が湧いてきてしまった。というか、この充実の質は、ちょっと出来過ぎているんじゃないのか、という感じだ。何と言ったらよいのか難しいのだが、もうちょっと緩くていいんじゃないだろうか、と。緩くていいんじゃないかというのは、意図的に緩くつくった方がいいということではなく、必然的に「緩くなってしまう」はずところも、その緩さを回避して、充実させてしまっているんじゃないのか、という感じだ。リアリティー(という言葉がまた曖昧なのだが)を追求するのならば必然的に緩く(あるいは「粗く」)なってしまわざるを得ないところを、芸や技術を駆使して充実させてしまっている、というのか。
とにかく、とても面白いことは間違いがなくて、戯曲自体も面白いのだろうし、俳優や演出の力量も凄いのだろうと思う。ただ、その「力量」が、どこかで少し「演劇」というフレームを前提にしてしまっているものなのではないか、という匂いを、ちょこちょこっと感じてしまった、ということなのだろうか。(例えば、舞台空間の分節の仕方---ソファーと、教師たちの机と、畳にちゃぶ台という三つの場+マッサージ椅子、それに入口と奥の部屋と窓の外---は、上手いといえばとても上手いのだろうが、やや安定し過ぎというか、静態的になり過ぎている感じがするとか、あと、ネクタイ売りが手品で甘露飴を出す仕草とかを、これ絶対うけるという「安全パイ」として使い過ぎじゃないだろうか、とか、あと、台詞の「意味」が立ち過ぎる---これはおそらく説明的に感じられてしまうということなのだと思う---が、ところどころある、とか。)全体的に、これをやれば間違いなく充実するとか、これをやれば間違いなくうけるだろうというような、技術的な安全パイがバランスよく配置されていて、それが舞台の高い充実を支えていることは確かなのだが、同時にそれが、ある種の「危うさ」の回避のようにも感じられてしまう、ということなのだと思う。
自分で書いていても、言いがかりのような書き方だと思うのだが(思い出し方や思い出す場面によっては、やっぱ、凄く面白かったんじゃないかと思ったりする)、それくらい、リアリティーって微妙なものなのだと思う。観ていて途中で何度か泣きそうになったし(一人で観に行ってたら絶対泣いたと思うけど、恥ずかしいので必死に我慢した)、とても充実した完成度の高い作品であり、弘前劇場ははじめて観たけど、次の公演も観たいと思ったことは確かなのだった。(作品中に何度か川島雄三という名前が出て来て、ああ、川島雄三を好きな人がつくっているのか、と、なんとなく納得したところもあった。確か、川島雄三も青森出身だったと思う。あと、関係ないけど、校長先生に牛をもらって世話してるという話は、青森ではリアルにあり得る話なのだろうか。あと、ずっと話題だけで本人が登場しなかった百二郎がはじめて登場した瞬間、こいつが百二郎に違いない、と分かってしまう顔をしているのとか、面白い。)
●決して客席がガラガラだったということではないのだが、演劇って、これだけ充実した作品が、たったこれだけの観客のためだけに行われるのかと思うと、なんて贅沢というか、もったいないものなのだなあとも思った。