●夜中までかかって、ジュンク堂のフェアの第三期「ごちゃごちゃ篇」の選書リストをつくっていた。ほんの一部、詩やエッセイがあるけど、ほぼ、小説とマンガのみ。とはいえ、ぼくは基本的にマンガをあまり読まないから、マンガはちょっとしたスパイスみたいな感じで(とはいえ、かなり濃いけど)、メインは小説。日本語で書かれたものと翻訳ものを合わせて、ざっと、120から130冊くらいの小説を挙げた。(このリストに加え、二期からひきつぐ画集などと合わせて、第三期とする予定。二期とは随分と雰囲気がかわると思う。)
別に、世界の小説ベスト120とか、そういう意識で選んだのでは全然なくて(ぼくにはその種の「体系的」な知識などまったくないし)、あの小説は面白かったなあ、とか、これはすごく好き、とか、そういう感じで一つ一つ思い出したものを、だらっと並べただけ。だから、ぼくの今の気分と趣味と関心とが色濃く反映されている、というか、ただ、それのみを表現していると言えるかもしれない。でも実は、ぼくが「自分の趣味」によって小説を選んだというよりも、ここで挙げた小説を読むことを通じて、自分の趣味がつくりあげられてしまった、という感じだと思う。(そんなことを言いつつも、こういう風に「リスト」をつくるという行為は、どこかで他人の目を意識して、中途半端にバランスをとるように「調整」してしまったりするところもあったりして、我ながらそういうところがせこいなあと思う。)
何かを「選ぶ」という時、まず選ぶ主体が先にあって、その主体の意思(主体によってたてられた基準)によって対象である作品が選ばれるかのように思えてしまうけど、そうではなくて、選ばれる作品の力がまずあって、それによって、その作品を選ばされてしまう、ということなのだった。そこには「相性」というものによる媒介が不可避敵に介在するのだが、しかしそこに、批評的な意図や、自身の立ち位置への配慮など、(まったくと言えないところが我ながら情けないけど、ほぼ)ない。
●言い訳のようになるけど、こういう時に選ぶことの出来る本は、今、新刊の書店に流通しているものに限られていて、その限定は、リストのあり様を、ややエッジの鈍いものにしてしまうことは避けられない。例えば、クロソウスキーの小説なら、是非『パフォメット(肉の影)』を選びたいのだが、これは古本屋でしか手に入らないものなので、代替的に河出文庫の『ロベルトは今夜』にすることになる。しかも、この河出文庫版は、本来三部作(「ナントの勅令破棄」「ロベルトは今夜」「プロンプター」)であるこの小説の、何故かそのうちの二篇しか収録されていない、とか。あるいは、ぼくは基本的にバタイユにはあまり興味がないのだが、『青空』という小説だけは妙に好きで(読んだのは実は随分前であまり憶えていないのだが、妙に好きだったという感触だけは憶えている)、是非これを挙げたいのだが、ぼくが読んだのは晶文社から出ていた天沢退二郎・訳のやつなのだが、今、手に入るのは河出文庫の『空の青み』になってしまう、という風に。
●自分でつくったリストを眺めていると、自分はやはり「八十年代の子供」なのだなあと、ややうんざりしながら思うのだった。