●『妄想少女オタク系』(堀禎一)をDVDで。すごく良かった。堀禎一は前に『草叢KUSAMURA』という映画を観たことがあるのだが、この映画は前半はとても面白かった(特に冒頭の、速水今日子と吉岡睦夫の、ラブホテルでの、まったくエロくなくて、ひたすら楽しそうなセックスシーンが素晴らしかった、吉岡が速水にお金を渡した時の、へーっ、お金くれるんだ、みたいな速水の表情とか特に良かった)のだが、後半、夫が出てきて以降は、無意味に関係を複雑にしようとしているとしか思えなくて、ピンク映画のルーティーンを見せられているようで、急速に退屈に思えてしまったのだが、『妄想少女オタク系』は、最後まで完璧に面白かった。
八十年代のはじめに、相米慎二にハマって以来、十代の女の子や男の子が被写体となった映画は数え切れないくらい観ていると思うのだが、これは、そういう映画の現在までのところ最もバージョンアップされた形態であるように思う。そしてそれと同時に、七十年代の大島弓子の傑作『バナナブレッドのプディング』が現代に甦ったかのような映画でもある(ただし、その悲劇的な側面は大幅にカットされた上で)。もし、本物の腐女子の人が観たら、「これは違う」という細部がけっこうあるんじゃないかという気もするけど、この映画は「腐女子」という現代の風俗的な現象を正確にトレースするというような映画ではもともとなく、登場人物のそれぞれが、まったく噛み合ない異なる欲望の形態をもち、相手の欲望を理解できないながらも、その噛み合なさのなかで、なんとかぎくしゃくとでも良好な関係を維持してゆくという話なのだから、まあ、そこはいいんじゃないかと思う。あるいは、「学校」はこんなに幸福な場所じゃないし、こんなにいい奴ばかりが集まっているはずがない、という意見もあるかもしれない(例えば「千葉」は、並外れたイケメンであると同時に、他者の欲望を正確に推測しようとする知と、それに伴う配慮とを同時に併せ持つ人物であるが、彼が十代であることを考えれば、こんな人物は少女マンガのなかにしか存在しないだろう)。しかし、あえて物事の否定的な側面を深追いしないというこの作品を貫く根本的な態度こそが、この作品を傑作にしているように思われる。
主人公の女の子は、目の前にいる男の子に対して、明らかに動物的-性的な次元で欲望を発動させられているのだが、しかしこの欲望は、この女の子の独自の(腐女子的な)幻想的なフレームを通してしか駆動させられない(表現形を得られない)。この映画は、このズレによって生じる隙間に沿って展開する。このズレは決定的であり、埋めることの出来ないものであるのだが、しかし実は、この映画の五人の主な登場人物たちが、ぎくしゃくとしてではあるが、一定の良好な関係を築けるのは、まさにこのズレによる隙間があるからこそなのだ(知や配慮は、このズレによってしか生じないだろう)。この映画が優れているのは、この「隙間」こそを丁寧な描写によってうかびあがらせているところにある。
たんに、現実の男の子はこういうものだ、という露悪的現実主義があるのでもなく、かといって、けっきょく人は自らの幻想を通してしか他者と接することが出来ないのだ、ということが語られるのでもない。目の前にある身体によって発動する性的な感触は、その表現形であるBL的な幻想のフレームには納まりきれず、しかしそのズレは自覚されないままもやもやとした感情を少女の内側に蓄積させるだろうし、それだけでなく、実際に目の前にいる男の子もまた、別の幻想的フレームによって女の子との関係を築こうと行動してくるから、そこに軋轢が生じ、自らの内にある自覚されないもやもやが、外側からやってくる、「男の子の行動への違和感」として外在的に自覚されることになろう。内側にある抑圧されたもやもやが、「他者の欲望の不可解さ」として外側から帰って来る時、はじめて自身の欲望に内在する違和感が自覚され(ここではじめて自らの欲望の動物的ななまなましさも自覚され)、同時に、欲望の対象であり主体でもある他者の存在が意識され、その(自/他の欲望への)自覚によって僅かに、他者への知や配慮が可能になる場所がひらかれる。
その時、女の子においては、自身の幻想的なフレームの、現実に対する融通的な可塑性がひらかれ、男の子においては、「気持ち悪い」とさえ感じる女の子の幻想的フレーム(BL的なもの)に対する寛容さ(および、その変化を待つ待機の覚悟)が生まれる。この映画が丁寧に追ってゆくのは、そのような過程だろう。幻想から現実へというスローガンも、けっきょく関係はすべて幻想でしかないという諦念も、どちらも粗っぽいものでしかない。この映画の丁寧さは、その中間をひらくためにこそあると思う。
●ぼくは普段は、十代の頃に戻りたいなどと思うことはまったくなくて、むしろ、あんなキツい時代は過ぎ去ってくれて助かったと思っているのだけど、こういう映画を観ると、既に自分が四十を過ぎてしまっていることに、すこしがっかりする。観ながら、この映画は終わらないでずっとつづいて欲しいと思っていたのだった。