●まだ、こちらに「戻って」これていないような、ふわふわした不安定感がつづいている。出発した地点と、帰って来た地点がズレてしまっていて、似たような別の場所に迷い込んでしまった感じだ。これは、不安定で、ちょっと辛い感じではあるが、嫌な感じではない。
小学校までは、子供の足で三十分以上かかった(体感的測定だけど)。でも、帰り道は、だいたい三十分では済まなくて、ほとんど毎日ぐるくると寄り道をしていて、土曜などは、昼前に学校が終わってから、真っ暗になるくらいまでずっと帰らなかったこともしばしばだった(昼ご飯抜きで)。一度家に帰ってから、改めて遊びに出ればよいのだけど、それでは「学校からの帰り道」が終わってしまう。楽しいのは「学校からの帰り道」で、それがずっとつづくことだった。
ぼくは何にしろ、途中がずっとつづくということに執着するみたいで、何事も、きっぱりと切断することが苦手で、薄い緊張をずっと引き延ばしたいと思っているようだ。日常生活も、様々なことを決定保留にしたまま、流れに任せてだらだらっとつづいてゆく感じで、それは、波風を立てることを好まないもともとの資質もあるのだろうけど、それ以上に、自分という装置の走行がもともとかなり不安定で、それを防衛するための技法でもあるようなのだった。
ぼくが旅行をほとんどしないのは、たんに経済的な理由からなのだと思っていたのだが、そうでもないのかもしれない。遠出は、出かけるのは億劫でも出てしまえば無茶苦茶に面白いのだが、ぼくには、上手く「戻って来る」のが、どうも難しいみたいなのだった。お祭りというか、祝祭的盛り上がりが苦手なのも、やはり、上手く戻ってこれないことを感じ、それを恐れているからなのかもしれない。(いっそのこと、「戻って来ない」で「行きっぱなし」という手もあるのだが、それをするにはかなりの勇気がいる。)
上手く戻ってこれていない状態は、嫌な感じでは確かにないのだが、ちょっとしたことでいちいち感覚のさざ波がたって、それが小さなダメージとなって体にこたえる感じで、ちょっと辛い。大袈裟に言えば、風で雑草が揺れているのを見るだけで、その振動が感覚にダメージとして刻まれるような。それは、草が風で揺れているだけで面白い、ということでもあるのだが。そして、どうしてもぼんやりとしてしまう。ぼんやりしているのはいつものことなのだが、ちょっと本格的にぼんやりしてしまうのだった。何より、本がなかなか読めないのが困る。
●夕方外に出ると、薄い雨雲が空いっぱいにかかっていて、そこに夕日が反射していて、西側の空だけでなく、空全体が雨雲に反射した夕日で濁ったオレンジになっていて、空からオレンジの光が地上にも降って来ていて、家々の壁や自動車のボディが皆オレンジに染まって、異様な感じだった。ツクツクボウシが鳴き、ところによってヒグラシが混じり、生暖かい風が荒れたように強く吹き、木の葉やゴミが舞い、遠くで雷が鳴るのが聞こえ、演出過剰にも、消防車のサイレンまで響いて、まるで世界の終わりのような風景だった。夏の夕方の天気が不安定なのは当然だけど、それにしても今年は不安定過ぎる。特に用事があるわけではないぼくにとっては、面白いけど。非現実的な風景のなかを、いまいちまだ「戻って来れていない」感じでぼけっと歩いた。東の空遠くで光っていた稲光りがだんだん近付いてきて、音もだんだんと大きくなってきたので、雨が降らないうちに帰ることにした。
●作家論を書き始めた。