●新宿のジュンク堂で、保坂和志さんと対談。こういう公開の対談の時はいつもそうなのだが、相手の話したことはかなり憶えているのに、自分が何を喋ったかはほとんど憶えていない。客席がとても近かったので、お客さんの方をあまり見ることが出来ず、自分の足元あたりばかりを見て話していた気がする。
●昨日、磯崎憲一郎さんが、仕事でぼくの住んでいるところの近くに来ていたそうだ。それで、駅ちかくのBという大型チェーン店のコーヒー屋に、Kさんという名前の(バッヂをつけた)、すごい美人の店員がいたので、古谷さんも見てくるように、と言われた。完璧に磯崎さんの好みに合致しているという。しかし何故ぼくがわざわざ、磯崎さんの好みの女性のタイプを確かめに行かなければならないのか。今後書かれるべき「磯崎論」の参考にしろということなのか。いや、そういう考え方は間違っている。たんに「凄い美人だ」という感動をぼくにも分け与えてくれようとしているのだ。
●打ち上げが終わって新宿を出たのはおそらく午前十一時前だと思うのだが、部屋に着いたのは午前三時過ぎていた。電車に乗ってしばらく行ったところで、大雨と落雷のために線路が冠水しているというアナウンスがある。各駅に電車が詰まっているので、電車は動かない。大雨とか言っても新宿周辺はほとんど降っていないので、そんなには大袈裟に考えていなかった。うんざりとしつつも、今日の対談で一仕事終えた感じがあり、明日は特に予定もないので、まあ、のんびり行けばいいやと思っていた。かなり長く立ち往生したが、一旦電車が動きはじめると、割合とスムースに進んだ。
しかし、電車がT駅を過ぎたところから辺りの雰囲気が急に一変した。そこでは、大粒の雨が降り、雷が爆音で轟いていた。新宿周辺はおだやかな天気で、雨も降っていなかったので、「大雨と落雷」は過ぎた過去のことで、冠水はただいま速やかに処理中なのだと思い込んでいたのだが、実はこちらは今もなお凄い勢いの雨と雷の真っ最中なのだった。雨と雷のなかを行く電車は、最寄り駅の二つ隣りで回送となって車庫に入り、乗客はホームに長い時間とりのこされた。ビリビリと痺れるほどの雷の爆音をぼんやり見上げる。何本か電車がホームに着くのだが、どれも回送になって車庫に入る。ようやく、一つとなりの駅にまで行く電車が来た。さらにもう一つ行けば最寄り駅なのだが、電車はもうこれ以上西には行けない、回復の見込みはないので、これ以降はタクシーで振替輸送するとのこと。この時点で午前一時半過ぎ。だがタクシー乗り場には、幾重にも折れ曲がって、一体どれくらいの折れ目があるのかよく分からないくらいの人の列が出来ている。実は、一つとなりの駅までしか行き着けないということは、新宿周辺でのアナウンスの情報で知っていたが、となりの駅まで着けば、あとは歩いても帰り着けるだろう思っていたのだが、爆裂する大雨と雷で、歩けるような状況ではない。とりあえず列の最後尾に並びながらも、この列を最後まで並び切るとはまったく思ってもみず、様子を見て、小雨になったら歩こう、ならなかったら、居酒屋かネットカフェに入ろうと思っていた。しかし雨はやむ気配も見せず、雷は増々増長して爆裂していた。列を外れるきっかけを見いだせないまま、列は中途半端に進み、段々とそこから外れにくくなってゆき、ずるずると列に並び続けた。
タクシーの順番がまわってきたのは、いい加減立っているのも辛くなってくる午前三時ちょっと前だった。大粒の雨と落雷のなかを進むタクシーのフロントグラスからの風景は、映画みたいでちょっと格好良かった。
●ようやく部屋に帰り着けたと思ったら、前歯が一本、唐突にポロッと折れた。あまりのことに、今、ここで起こっていることの意味が一瞬把握出来なかった。鏡を覗いてニーッと笑うと、間違いなく前歯が一本欠けている。これは一体どういう徴候なのか。愕然とする。(人間のからだは、こうして何の前兆もなく、ポロッと崩れるものなのか。ちょっとだけ死を思う。)