●お知らせ。エスクァイアマガジンジャパンから出ている『フランシス・F・コッポラ(Francis Ford Coppola & His World)』という本に、『タッカー』(1988年)についての、原稿用紙10枚くらいのレビュー(「テカテカの車体とペラペラの笑顔が映し出す死の気配」)を書いています。
●引用。メモ。「K先生の葬儀実行委員として」(保坂和志)より。
《猛々しくて不穏で過剰な山の方こそ見る価値があるのではないかと思ったからといってわたしはジャコメッティ展を見なかったわけではない。しかし、わたしあるいはわたしたちはジャコメッティを見たと言えるだろうか? わたしたちはジャコメッティを見るには知りすぎてはいまいか? あそこに並んでいた彫刻やデッサンをあなたたちは驚きや戸惑いを持って見ることができなかったのではなかったか? すでに知っている以上の何かをそれらを前にして見ることができたと言えるのだろうか? しかしそれなのにどうしてわたしは海にせまる葉山の山だけでなく、鎌倉の山までをも見るたびに見るのか? わたしは決して既知の知識によって鎌倉の山を見るのでなく見るたびに見て、それを驚くことなく平然と見るたびに見る。》
●引用。メモ。「Quid?」(樫村晴香)より。
《線状の文、つまり意思疎通の道具としての意味作用の外部に出ること、神話のように再度非線状となることが、小説が三文哲学から離陸するた めの、非常に困難な道だった。だが、神話が非線状であるとは、どういうことか? それはレヴィ=ストロースの言うような意味とは関係ない。つまり河の東の 強い男ムアイと、西のウギは、一方は腕に、片方は足に優れ、別の季節に狩をした、などということではない。それは単にムアイの話ができた後で、別の者が生産と婚姻関係の効果を受けて、つまり「存在」に敬意を表して話を模倣し、諸部族の起源を対照的・構造的に遡及構成した話だ。問題なのは、「強い男ムアイ は、白爪鷹であり、そして人間だった。彼は河の東で生まれ、その時西では生まれていなかった」ということだ。あるいは「人間とは、同時に、二、三、四本の 足をもつ存在だ」ということだ。》
《輪廻的なメタモルフォーゼとは何なのか、あるいは神話的な動物化とは何なのか、それは単純には語れない。「朔日の夜、ある者が狼になった」という時、 「今まさに、狼になる」時、「生まれる前狼だった」という時、あるいは「死んで狼になった」、という時。とりわけ重要なのは、人は耳から狼になるのか、目から狼になるのか、口から狼になるのか、鼻から狼になるのか、爪から狼になるのか、ということだ。「マッツェーリは人間であり、狼である」という時、その言葉が耳から入り、考えを支配する力をもつのか。眼前の狼の姿の恐怖と躍動の感覚が、目から入り人間の表皮を突き破るほど大きくなるのか。あるいは子羊の生肉を噛みちぎった時、狼だった ことを思い出すのか。さらには血の匂いがそうさせるのか。しかし、てんかんヒステリー的に剥奪されるのでなく、とりあえず自らの意思において変身が可能に なるには、目から入る姿が、恐怖を凌駕する躍動、恐怖そのものである躍動を与えることが必要だ。その躍動、快楽が、耳から入る言葉と共犯する時、変身は輪廻に昇華する。》