●引用、メモ。「アトリエの毛沢東/その精神病的=分析哲学的表象システムと上下反転運動の論理的解明」(樫村晴香)より
《しかし人が真偽について分析哲学的議論を始めると、そこでは「ソクラテスは人間である/ソクラテスは人間ではない→1/0(真/偽)」という言語内部で純粋に閉じた写像関係が操作され、「人間」を差異化‐析出する否定の作用は累積的な非線形変換ではなく、「(ソクラテスは人間)である/でない」という単に語結合上の対立として線形分離されてしまう。
もっとも通常の言明でも、「明日いきますか?」という問いに対し「いえ、いきません」と答えるとき、人は「いく」ということの内実を検索しているわけでなく、回答は概ね言語野内の結合操作、「いく/いかない」という共時対立で閉じられている。これは思考‐語結合過程を支える脳の短期記憶の容量が、人間の場合ひどく貧しいことに起因している(文と画像情報の圧倒的量の違い、ただの語鎖列でなく画像を保持することの困難を想起されたい)。》
《つまり諸物=知覚と記述=言葉の分離は一般の思考でも発生し、その分離を、分析哲学的思考は固定化する。人は「ソクラテスは人間である」というとき、それが「ソクラテスは人間でないor非人間・動物である」ということの単なる否定でないことを知っているが、分析哲学的思考はそのことを永久に忘却し、思考は語の結合の可否にのみ切り詰められる。これは最終的に精神病的思考に帰結する。例えば「宵の明星は明けの明星である」という思考が「宵の明星=明けの明星」という形に分析哲学的に「表記しなおされる」とき、思考は実質的に無時間的で諸物との関係を失った分析判断(例えば宵の明星=宵の明星)と同等のものとなる。》
《これは端的には、思考における待機と時間の喪失を示している。「ソクラテスは人間である」というとき、人間の本来的思考では<ソクラテス><は=be, essere><人間(である)>の三項は、いわば現在・未来・過去の異なる三相に帰属する。認知内容との全連結を潜在的に保持しつつも、同時に厚みのない全体性=ただの言葉である主語<ソクラテス>は、<be>という幻想‐想像的な待機の過程(これは原初的には他者=母に向かい、待つ時間である)を経ることで、述語に記載された過去‐記憶‐認知から遡行的に発見され、<述語にかかわる限りのものとして>内実を限定‐贈与される。通常の思考では「ソクラテスは人間である」はただの語鎖列として扱われ、このような過程を経ないとしても、そのときはこの文全体が主語=関係節として、次の入力=述語に向けて待機し遡及決定される。
これに対し、精神病的思考、または「ソクラテス=人間」ではこの遡行はなく、述語の瞬間に主語は放棄され忘れられる。ゆえに「人間はソクラテスである」でもかまわない。あるいは「花は桜」という日本的な擬似精神病的思考もこれに従う。この例がもつ書き割り的な非物質性と軽さは、同様の質感をもつアラカワの世界を後ほど説明するだろう。》
《この、述語による遡及決定の不在は、述語が諸物‐認知から分離されることと、お互いに規定しあう。まず「人間である」ということが、人間についての現実的認知と分析哲学的に分離されることで、それはただの言葉となり、ソクラテスのイメージを具体的に分節‐遡及決定できなくなる。》
《例えば分析哲学的世界(アリスの不思議の国)では、(論理的)固有名としてのソクラテスには、ソクラテスという人の現実的全体性と、ただの言葉=音としての全体性が曖昧につきまとい、それは「猫のないにやにや笑い」のような不可解さ、あるいは「現在のフランス王」のような非現実性を刻印される(「現在のフランス王は禿げている」という言明の真偽値をどう決定するか――なぜならフランスに王は現存しないので――は分析哲学での積年の問題だった。そしてそれは未だ完全に解けていない!)。これは名としてのソクラテスが、命名過程という対象関係の非線形的時間でなく、すでに確立した共時的‐線形的語彙目録にのみ出自をもち、その上で述語の分節=限定性の対極に位置づけられることによる。つまり言葉と諸物は後者が前者に包摂される形で短絡する。そしてこの短絡は精神病的症状でもあり、それゆえある種の精神病者は「うまく物事を理解するには天才という言葉を使うといい」と言ったりする。
精神病においては、身体から疎隔し、ただの記述‐制度でしかなくなった形容詞や範疇語に対立する全体性として、対立概念の並立や範疇の混合が偏愛される。「全能なるものは無力であり、静寂は喧騒である」といった「パラディグムのサンタグム化」や、「重軽い」等の新造語、「半人間・超人間」といった脱範疇概念などがそれであり、それらも「現在のフランス王」と同様の、抽象性‐純粋言語性を帯びている。》
《まず対立物の精神病的並置において、その並置自体は言語的作業だが、何を並置するか(内=外、善=悪等)は、言語以前の原初的な世界認知に帰属する。そして原初的な世界認知、つまり認知と身体制御のアルゴリズムは、言語以前の場で獲得されるだけでなく、その端緒から、性的‐神経症的過程を刻印されている。例えば子供がよく描く内部透視図‐内外短絡画法の精神分析的解析が教えるように、それは母の体内探索、隠されたものへの恐怖、性的欲望、といった情動と不断につながり、これらの性的情動が、子供の世界認知を最初から強く規定する。そして対立物の精神病的並置にも、この原初的=性的な世界認知が影を落とす。それゆえシュレーバーの「処罰=報酬、毒=食物」といった例は、明瞭に肛門・口唇欲動とつながりをもち、そこには母‐父との対象関係を通じて身体表面に記載された、神経症的、正確には強迫神経症的な力動が表現される。つまりシュレーバーの手記は、父への両価的愛憎感情のような、主体の無意識の普遍的構成過程と隠喩的なつながりをもち、それは文字どおり文学的で誰にもわかり、同時に退屈な代物である。一般に精神病的な並置化は、両価性をはらんだ対象関係を反映するので、必ず<善/悪>の要素をもつ。》
《これに対し、アラカワの対立は、基本的に善悪の要素をもたず、純粋に言語的かつ空間的で、その抽象性、性的要素の不在はきわだっている(これは最初に述べた、彼とシュールレアリズムを端的に分かつ点である)。つまり彼においては、記述‐述語への懐疑と、その懐疑を通じて、制度としての記述が取りこぼす全体性を再度記述‐形象内部に回帰させる、純粋に知的‐科学主義的な表象操作が前面にあり、表象(並置された対立物)そのものは身体的‐性的過程から切り離される。
とはいえアラカワの世界は、精神病と無縁なわけではまったくない。彼において(対立物の並置をはらむ)作品‐形象そのものは善悪と性的‐身体的要素を排除するが、形象がその存立のために鑑賞者に要求するのは、純粋に身体的な支出であり、しかもその新たに構築された身体(あるいは知覚)を通じて目指されるのは、新しい共同性‐間主体性という、倫理的‐道徳的な空間だからである。つまり表面上の記述‐形象は、性(対象)関係と善悪を一貫して排除しつつ、形象に賭けられているものの、その裏地は、対象関係や身体と密接につながった、存在論的全体性である。そしてラッセルにおいても、症候としての全体性「これ、あれ」の背後には、既述のごとく身体‐対象関係が特権的に関与する。
つまり分析哲学でもアラカワでも、記述はその力能と真の公共性を疑われるが、その前提には、記述を共有し、かつ自らに教授した、他者・対象関係への不信がある。そしてアラカワの場合、記述‐述語への不信は、特に遠近法という公共的な知覚‐述語(遠い/近い)への不信であり、その背後には、おそらくアラカワの現実的知覚がもつ特異な強度‐超差異性が、通常の知覚(およびその表象としての遠近法‐形容詞‐共時的差異)との間にもつ、隔たりと疎隔感が横たわる。実際、アラカワは形容詞への違和感をよく語る。そしてその結果(あるいはその原因として)、記述としての遠近法と、その基盤としての現実的知覚を贈与‐共有する、他者‐制度への不信が存在し、それがまったく新しい対他関係、「救済のための都市」を要請する(とはいえこの道徳性への要求は、しばしば分析哲学の裏地でもある)。それゆえアラカワにおいては、精神病における(述語の基盤たる)知覚‐範疇分けの解離と、構造的に相同な、知覚‐世界認識の特異性が存在するが、その特異性は、シュレーバーのように自己の対象関係‐性関係のみからは由来しないので、形象‐作品そのものは新たな知覚‐記述の創出に捧げられ、身体(あるいは自他の身体関係)は、既存の性関係から切断されて、その新しい知覚‐形象‐公共性の創出の手段としてのみ登場する。》
《アラカワの世界は、一貫して遠近法の否定に捧げられ、彼自身若いときより「遠近法はただの制度である」とくり返し語っている。しかし述語‐遠近法は、本来他者=母からの現実的知覚の学習とその内化に基盤をもち、それは対象関係と不断に関与する。そして一般に絵画とは、疎隔化し制度化した知覚‐遠近法の主体への再統合を通じて、対象関係‐性関係(つまり症候的全体性)を幻想的に配給する装置である。つまりアラカワの芸術がもつ宗教性‐道徳性、性関係の表面的不在と、形象‐作品の外側で現実的(=非想像的・非幻想的)身体支出としてのみ対象・対他関係が駆動する特異性は、彼における遠近法への極端な敵意と連動している。したがって述語‐遠近法への懐疑と、作品‐形象外部の身体支出(=実践としての鑑賞)の重要性、そして救済と都市建設という、アラカワの世界の主要素の密接な連関を分節するには、知覚‐遠近法の普遍的構造をあらかじめ理解する必要がある。》