●昨日の夜、樫村晴香のアラカワ論を読んでいたら、興奮して眠れなくなった。
《「ソクラテスは人間である」というとき、人間の本来的思考では<ソクラテス><は=be, essere><人間(である)>の三項は、いわば現在・未来・過去の異なる三相に帰属する。認知内容との全連結を潜在的に保持しつつも、同時に厚みのない全体性=ただの言葉である主語<ソクラテス>は、<be>という幻想‐想像的な待機の過程(これは原初的には他者=母に向かい、待つ時間である)を経ることで、述語に記載された過去‐記憶‐認知から遡行的に発見され、<述語にかかわる限りのものとして>内実を限定‐贈与される。》
つまり、「ソクラテスは人間である」という文は、分析哲学者の言うような「ソクラテス(メンバー)は人間(クラス)に属する」という形に形式化されるものではなく、今、目の前にある(聴こえている)、たんなる文字(音)の羅列である「ソクラテス」という言葉が、「は(be)」によって、未来へと開かれる時間(待機)を経て、述語「人間」にあらかじめ記載されている、たんなる言語の内部だけでない様々な「人間」に関する記憶の感触と結びつくことで、遡行的にその内実を(原初的な「他者」から)贈与され、意味が限定される、という脳の演算過程を示している、と。
ということは、「ソクラテスは人間である。」という単純な文のなかに既に、樫村さんがよく言う「過去が未来の方からやってくる」という逆流する時間の感触が含まれている、ということなのではないか。
●朝方になってようやく眠り、昼過ぎに起きる。夕方から対談の仕事で新潮クラブというところに行く。作家を執筆のために缶詰にする施設だという古い建物で、歴代の文豪の霊が出るとか。ある作家が住むところを追われて、一時難民のようにして住み着いていた、とも聞いた(その間、この部屋にCDやDVDの山が出来ていた、と)。平日は住み込んでいるという管理人のおばさんもいる。歴史のある出版社がもつ文化資本の豊かさというのがあるのだなあと思って、きょろきょろ見回してしまう。
●最近、トークショーの依頼があったりするのだけど、依頼してくる人は、ぼくの書いたものは読んでくれているのだろうけど、おそらくぼくが喋っているところは見たことがないと思うので、つまり、ぼくがどういう風にしか喋れないのかということを、ちゃんと分かっているのだろうか、それでもよいと思っているのだろうかと、不安になる。