●お知らせ。10月18日(土)に、吉祥寺にある、古本と新刊書を同時に扱っている「百年」(http://100hyakunen.com/)という本屋さんで、残雪(ツァンシュエ)という現代中国の女性作家についてのトーク・イベントがあって、残雪の小説の多くを翻訳している近藤直子さんと対談します(http://100hyakunen.com/?mode=f3)。ぼくはこのイベントの依頼があるまで、残雪という作家をまったく知らなくて(依頼して下さった百年の樽本さんは、どうもぼくのリンチ論を読んで、こいつが残雪を読んだらどう感じるだろう、と思ったらしいです)、最近はじめて読んだ作家について、はじめて読んで一ヶ月くらいでその作家について人前で話すというのは、なんとも心もとない感じなのですが、しかし、はじめて読んだ残雪にぶっ飛んでしまって、とにかくぼくが近藤さんのお話を聞きたいという気持ちになってしまって、お引き受けしました。
今、残雪の本で普通に本屋さんで手に入るのは、河出書房新社から出ている世界文学全集の『暗夜/戦争の悲しみ』と、あとかろうじて、平凡社から出ているカフカ論『魂の城 カフカ解読』くらいだと思います。「暗夜」を読んでぶっ飛んで(ここに収録されている「痕」や「暗夜」を読めば、誰でもぶっ飛ぶと思う)、早速「日本の古本屋」で検索して見つけた『突囲表演』と『蒼老たる浮雲』を注文して、アマゾンで、「在庫一点」だった『魂の城』も注文してしまいました。今日、『突囲表演』を読み始めたのですが、これもまた、冒頭からぶっ飛ばしていて、凄過ぎる感じで、さらに『魂の城』をパラパラとめくって、そのあまりにも濃厚で強烈な本気度に押し込まれてしまっている感じです。「ぶっ飛ぶ」とか「凄過ぎる」とかしか言えないのは、我ながらバカっぽいと思うのですが、そう簡単にもっともらしいことが言えないくらいに凄いです。
『蒼老たる浮雲』の翻訳が出たのが89年で、それはぼくが大学に入った年で、二十年近くもこの残雪という作家を知らないままで来てしまったのは、何とももったいない気もしますが、二十年前のぼくには、ちょっと強烈過ぎるかもしれないという気もします。『魂の城 カフカ解読』の冒頭で、残雪は次のように書いています。
《二十年あまり前、まだ母親になりたてで主婦をしていたころのある陰気な日に、わたしは偶然カフカの小説を読み始めた。もしかしたら、そのなんの気なしの行動が文学全体に対するわたしの見方を変え、その後の長い文学探究の中で、文学への新たな信念を獲得させてくれたのかもしれない。だとしたら、わたしのような特殊な小説を書く者にとって、カフカはいったい何を意味するのか? こうたずねたとたん、あの陰気な午後の情景が脳裏に浮かんでくる。酔い痴れるような、悪意の復讐の快感、ひそかな、鎮めようのない感情の激流。》
《何年もたってから、わたし自身もその事業の追求者となった。そしてようやくわかったのは、それがもっとも希望のない事業だということだった。混乱果てなき戦場は陰謀の綱も同然で、そこにたまたまひとつの駒として投げこまれても、永遠にその事業における自分の真の働きはわからない。これこそ自由の感覚であり、カフカが作品のなかでその叡智の眼差しによってわたしに伝えてくれた真正な自由であった。(略)カフカはわたしにとって何を意味しているか? 彼が意味するのはこの上なく惨烈で、また快感に満ちた自由である。》
また、訳者のあとがきでは、残雪が小説を書き始めた頃について述べているエッセイが引用されている。
《わたしはこの十数年について、その後について、多少のことを語ることができるような気がした。それも普通の人は意識したこともなければ言ったこともないようなことを。わたしはそういうことを文学によって、幻想の形式によって語りたいと思った。ある抽象的な、同時に純粋ななにかが、わたしの内部で徐々に凝集してきた。わたしは書きはじめた。毎日少しずつ、なぜこのように、あるいはあのように書くのか完全には知らないままに、ただひたすら自分の天国に執着し、くりかえし味わい、ひとり楽しんだ。》
訳者は、作家の次のような発言も書き留めています。
《聞き手がとうに立ち去った電話口にむかって、ひとりの発明家が延々と語りつづける『思想報告』という長編を書いていたころ、彼女はこういった。「これまではまだ自分の小説に興味をもち、理解してくれる読者がいたけれど、自分が今書いているものやこれから書くものを理解してくれる読者が果たしているだろうか。書きつづけていくうちに読者はしだいに減り、ついには自分ひとりにしか理解できないようになるのではないだろうか。書き手にしか合点のいかない文学とはいったいなんだろう、と。》
これは作者のナルシシズムということとはまったく異なる(自分が「頭がいい」ということを人に示したいだけの人は、すぐそういうことを言うのだが)。こういうところで書いている人だけが「作品」をつくっているのだし、世界に対して開かれているのだと思う。