●引用、メモ。『赤ちゃんには世界がどう見えるか』(ダフニ&チャールズ・マウラ)より。世界が開示(分離)される瞬間。
《はじめのうち胎児の動きは身体全体がけいれんするような感じで、頭も上になったり下になったりする。だが妊娠中期になると、胎児の動きはもっとコントロールされ、頭はどちらかというと下になっていることが多い。これはたぶん、頭のほうが足よりも重いという単純な理由によるのだろう。しかし平衡感覚器官は六ヶ月までに完全に発達して大人と同じ大きさになる(妊娠中に大人と同じにまで発達する唯一の器官である)から、胎児は少なくともある程度は自ら頭を下にする位置をとろうとしていると考えられる(逆子で生まれた子供は学齢期になっても平衡感覚が弱いようだ。子宮内でも平衡感覚が弱かったことがこれに関係していると思われる)。
胎児は上下の感覚がまったくないままにそうしているのだ。》
《母親の胎内で聞く声は、ふつうに聞くお母さんの声とまったくちがうはずだから、新生児が母親の声を子宮で聞いていたのと同じ声だと識別するとは考えられない。まして個々の言葉を聞き分けているとは思えない。だが母親の話し声の何か---たぶんリズムだろう---が、はっきりした印象を与えているらしい。(略)生後三日を過ぎると、赤ちゃんたちはスピーカーから聞こえるお話が胎内で読んでもらったものと同じかどうか聞き分けた。赤ちゃんたちはおしゃぶりの吸いつき方でこれを示したのだ。(略)
胎児はお母さんの声をしじゅう聞いており、その声はなじみ深いものになっている。もちろん、生まれてから聞く声はまったく響きがちがうが、パターンやリズムは同じだ。そのため赤ちゃんは、お母さんの声は生まれてすぐわかるが、お父さんの声はずっと後になるまでわからない。》
《産道から出たとたん、赤ちゃんの世界はそれまで知っていたものとは一変する。赤ちゃんの感覚にはどっと刺激が押しよせる。だが、必ずというわけでもなく、すべての感覚に訴えかけてくるわけでもない。(略)赤ちゃんは出産時とその直後は、それまでの何週間かよりも感覚が鈍っている。(略)産道でこすられたり押しだされたりした赤ちゃんは、マッサージを受けた大人の皮膚感覚が鈍るのと同じように鈍っているだろう。
だが全体として、赤ちゃんに麻酔が効いていなければ、生まれでた赤ちゃんは連鎖弾や砲弾を浴びたような気持ちだろう。もう身体全体をやさしく包んでくれる袋のなかに丸くなってうずくまってはいない。赤ちゃんはつつかれたり押されたりするし、関節ものばされる。赤ちゃんははじめて急激な動きを感じる。持ちあげられたり、降ろされたり、子宮のなかでは思いもおよばなかったほど激しい動きにさらされる。頭も衝撃を和らげる羊水につかってはいない。かん高い音が耳を打つ。世界には高音や倍音が満ちているが、それらは子宮のなかではほとんど聞こえなかった。それに、7章で見るとおり、新生児はわたしたちには聞こえないたくさんのこだまを聞いている。》
《だが、どんな音よりもなじみがなく、負担が大きいのは、光である。子宮にいるとき、赤ちゃんは母体を通してぼんやりしたかすかな光を感じることはあるだろうが、これはほとんど無視できるほどのものだ。赤ちゃんがはじめて強い光に接するのは生まれでたとき、つまり産道から頭が出たときだ。未熟児でも生まれてすぐに見る---動くものを目で追う---ことができることから、新生児の視覚系は出産という強襲の前にある程度までできあがっていると考えられる。しかし、後で見るとおり、新生児の視覚系はまだ未熟である。この未熟さがクッションとなって新生児の目を光から守る。たとえば瞳孔は二ヶ月児ほどにも開いていない。だが、そうしたクッションがあっても、新生児は弱い明かりにさえ耐えられない。》
《だが新生児が寒さを感じるとしても、世界が寒いとかまぶしいとかいう印象はないだろう。このちがいは微妙だが、重要である。新生児は寒さだけを感じ、あたりが冷えているから自分が寒いのだとは思わない。後に見るように、そうした感じ方は知的なはたらきの産物であり、理論的な演繹の結果得られるもので、新生児にはそんな能力はない。生後六ヶ月まで、赤ちゃんには感覚があるだけである。赤ちゃんには自分と自分自身の感覚しか存在しない。
さらに、つぎの章で見るとおり、新生児には自他の区別がつかない。赤ちゃんは目に見えるものや音、感情、匂いなどが混然としたなかにいる。視覚は音をともない、感情は味をともない、匂いに目がくらむ。》
《あきらかに新生児の脳や神経のネットワークは未熟で、成人の中脳のように秩序正しく回路のスイッチを入れたり切ったりできないだろう。さらに新生児では、起きているときの動きが消えて眠りが現れるときも、大脳皮質はあまりかかわっていないようだ。新生児の大脳皮質は活発だが、動きや知覚をコントロールする度合いは少ない。動きのほとんどは反射的なもので、中脳の別の部分によってコントロールされている。したがって、これらの動きが消えて赤ちゃんがぐっすり眠るときでも、大脳皮質のはたらきはかかわっていないし、影響もないらしい。
この意味するところは大きい。大人が眠っているとき、中脳は皮質との回路の多くを遮断している。意識はこの回路にあるから、意識もほとんどなくなる。新生児では皮質のはたらきが少ないから、起きているときも大人ほどの意識はない。だが、新生児は眠っているときでも、つねにではないにしろ、ほとんどの場合、これらの回路がつながっている。したがって、新生児し眠っているときもつねに、起きていると同じか、それに近いくらいの意識を維持していることになる。》
《新生児が何かに慣れるというのは、直接的な感覚と神経系に流れこむエネルギーの総量との組み合わせに慣れるということだ。新生児が「活動的な睡眠」から「静かな睡眠」、あるいは目覚めへと移行するとき、エネルギーの総量は変化する。そこで新生児がある状態に慣れたころ、別の状態に変化すると、いったんは慣れたことにも、また新しく反応する。(略)早朝、ノコギリが音をたてはじめると、新生児室で眠っていた赤ちゃんたちは驚いて身体を動かしたが、やがて騒音に慣れた。それから目を覚ました赤ちゃんたちを研究室に連れてきたところ、赤ちゃんたちはまた、音がするたびにびくっとした。この事実の意味するところはあきらかである。新生児が起きたり眠ったりするたびに---あるいは「静かな睡眠」から「活動的な睡眠」に移行するたびに---突然、もう意識しなくなっていた物事をあらためて意識するようになる。一日に四五回から五〇回、一つの状態から別の状態に移行するたびに、赤ちゃんは世界をあらためて認識しなおす。まわりの騒音は急に別の響きに感じられるようになり、感覚や匂いもまたちがって受け取られる。目覚めるたび、眠るたびに、赤ちゃんは世界をあらためて学習しなおすのである。》
《このころ(生後九ヶ月)になってはじめて、赤ちゃんは新生児よりも睡眠時間が短くなる。このころの赤ちゃんが他にどんな大きな変化を経験しているかは9章と10章で取りあげるが、この変化は生涯のどの時期よりも根源的で、その結果、赤ちゃんは成人と同じ世界を認識できるようになる。はじめて成人と同じ意識の発達がはじまり、成人と同じ覚醒と睡眠がはじまる。
だが、赤ちゃんはこのころになっても、睡眠と覚醒を成人と同じように理解することはできない。たぶん、大人と同じように夢を見るはずだが、夢と覚醒とを区別することはできない。三歳児でさえ、この区別はできない。はっと目を覚まして、自分はいま犬に噛まれたのにどうして泣いていないのだろうと思う。五〜六歳になってやっと、子供は夢が現実とはちがうことを理解しはじめるのだ。》