●朝、目が覚めたのだが、とりあえず風邪を治してしまおうと思い、午前中いっぱい寝ていることにする。朝起きたときも、昼過ぎに再び起きたときも、寒くて、窓の外はどんよりと薄暗い。寒いのはともかく、目覚めて窓の外が薄暗いと、なんとなく気が重い(ぼくは自分が、陽射しが強くさえあればとりあえずは機嫌が良いのだ、ということに最近気づいた)。午後になって、体をならす感じで散歩に出る。嫌な咳がちょっと残ってるくらいで、特に問題はなかった。
●もうすぐ、岡田利規演出の「友達」がはじまる。でもこれ、チケットが五千円するのだった。あと、川村記念美術館までモーリス・ルイスを観に行くと、往復の交通費がけっこうかかる。交通費+入場料+図録代となると、かなりの出費となる。それに、やはり、セザンヌピカソフェルメールの展覧会は観ておきたい。となると、壊れたファックス電話機はなかなか買い換えられそうもないのだった(家電量販店に様子を見にいったら、一番安いやつで一万五千円弱くらいだった)。おそらく、家の電話とファックスは当分通じないので、連絡のある方は、メールか携帯電話にお願いします。
●ぼくが「ユリイカ」の11月号に書いているピカソについてのテキスト(「ギターと仮面とコンストラクション」)は、学問的な実証性という意味ではほとんどいい加減だけど、とにかく、(非常に充実したものではあるが)分析的キュビズムの行き詰まりのなかにいる時に、それを打破するような立体的なコンストラクションがふっと出て来てしまう、その時のビカソの素晴らしい跳躍力というか、ジャンプする瞬間の感覚こそを捉えたい(つまり、自分も追体験したい)と思って書いた。それは、追いつめられてどうにも動けなくなった時に、ふいにくるっと方向を変えて(無意識のうちに変えていて)、それまで、実現出来なかったというだけでなく、想像すらすることの出来なかったことが、何故か突然に出来てしまった、という、実際に作品をつくっている人ならば、一度や二度は経験したことのあるだろう、あの瞬間のことだ。だからそれは、ジャンプというよりも、サッカーで複数の相手に取り囲まれたプレーヤーが、ふいにあり得ないやり方でディフェンスをかわしてしまった時の、そのあり得ない動きのようなものだと言うべきかもしれない。その、あり得ない動きが生成される瞬間こそを、分析的に捉えようとしたのだった。
大学の図書館で、この時期のピカソの全作品が載っている画集をパラパラと観ていて、分析的キュビズムの作品のなかに、いきなり「ギター」という鉄板を組み合わせてつくったコンストラクションがあらわれた時は、えっ、ここでこれが出て来るのか、と、ピカソの動きの冴えというか、運動神経に、凄く驚いて、この機敏さこそがピカソなのか、と、ピカソという画家を再発見したのだった。というか、ピカソって要するにこの「機敏さ」だけでずっとやってゆけたという人なのだと思った。