08/11/12(水)
●レクチャーのために、『呪怨2(劇場版)』(清水崇)を改めて観直して、とても面白かった。「朋香」というパート(新山千春が主演)が面白くて好きなのだが、「千春」というパート(市川由衣が主演)がまた、短いけど圧倒的に面白いので、こちらもレクチャーで観てもらおうかと思った。
呪怨2(劇場版)』は、おそらく清水崇の「作家性」が最も濃厚に出ている作品で、それは(本にも書いたことだけど)、本来独立して別々にあるはずの異なる系列が、何かの拍子でふと触れ合ってしまう瞬間を形にするということだと思う。物語的には、「呪い」の連鎖が全てを呑み込んでしまうという話なのだが、清水崇の作品(としてのフォルム)において重要なのはそのような(黒沢清高橋洋のような)運命論なのではなくて、異なる系列の偶発的な接触(つまり短絡)で、本ではぼくはそれを「愛」という言い方で書いた。接触することによって実は、それが本来は触れ合うことの出来ない別々の系列であることこそが強調されもする(だからそれは、普通に言われるような「愛」とは随分違っている)。そしてそこではいつも「時間」と「空間」が問題となる。本来独立して別々にあるべき系列とは、例えば現在という自制にいる自分と、未来にいる自分ということでもあり、あるいは、いま、ここにいる自分と、いまではあるが、ここにはいない(別の世界、パラレルワールドや悪夢のなかにいる)自分ということでもあって、その異なる系が接触することによって、自分が自分からこぼれ落ち、分裂して、複数の分身へと枝別れするということでもある。この、自分という系列の複数性とそのそれぞれの孤立性、そして、別の系との接触によってこそ、自分が自分からこぼれ落ちて分岐してゆく感覚が生まれるという感じが、「朋香」と「千春」というパートでは、すごくリアルに、濃縮されて形になっていると思う(だからここで言う「愛」とは、自分の自分に対する関係、つまり、ある系列にある自分と別の系列にある自分との接触の感覚であり、また、いま、ここにいる自分が、同時に、まったく別の場所にいる自分へと分岐してゆく感覚でもある)。(「文学界」の書評でもちょっと書いているのだけど)「分身」とはつまりそういうことで、こういうことこそが、いまのぼくにはすごく面白い。
●『呪怨2(劇場版)』を観た勢いで、つづけて久しぶりに『蜘蛛の瞳』(黒沢清)を観た。少し前に、田園調布をぶらぶら歩いていて、すごい坂に行き当たった時、まるで『蜘蛛の瞳』で哀川翔がピストルを受け取った場所(このシーンはとても素晴らしいのだった)みたいだと思ったのだが、観てみたら、実際同じ場所だったみたいだ(遠くの高台に見える特徴的な住宅が同じだった)。おそらく、もう一度そこまで出かけていけば、『蜘蛛の瞳』で哀川翔が立っていたのとまったく同じ位置に立つことが出来る。しかし、それはまったく同じ場所であるのに、だからといって、それによってぼくが『蜘蛛の瞳』と同じ世界に入ってゆけるというわけではない。その場所に立つことによって、フィクションと現実が、というか、より正確には、『蜘蛛の瞳』にとっての現実とぼくにとっての現実とが、「同じ場所」を共有しつつも、まったく相容れない異なる系列であるこが体感される。同じ場所に立てることによって(同じ場所-現実を共有していることによって)、つまりその世界の構成要素の一旦に触れられることによってこそ、そこによりリアルにズレの感触が生じ、そこから世界が複数に分離してゆく感覚が得られる。フィクションのリアルの秘密の一端はこのことにあるように思う。ここでもまた、接触することによってズレてゆく感覚こそが、とてもリアルで面白いのだった。
●レクチャーで使用するための本を探していたのだが、どうしても『白暗淵』(古井由吉)と『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)がみつからない。『ペドロ・パラモ』なんて、いつもすぐ目につくところに置いてあるはずなのに、部屋じゅうひっくりかえすようにして探してもみつからない。今日一日、この二冊の本を探すためだけに費やしてしまったようでさえある。そのかわり、ずっと探していてみつからなかった『精神分析の四基本概念』(ジャック・ラカン)が、拍子抜するようなところから、ひょっこりとみつかったりした。