●18日のレクチャーでは、10日の日記に書いた、色彩を今(「私」が)見ていることと、記憶やイメージとの混合の話がまずあって、それと、昨日書いた、ホラーに出て来るような幽霊や分身や幽体離脱を発生させる、複数の独立した系列とその短絡(接触)の話があって、前者はドゥルーズの言う「被知覚態(ペルセプト)」、つまり、知覚対象から切り離された感覚の「質」という話で、後者はおそらく、「私」という(中枢化された)次元で働く人間的(対象関係的、外傷的)な欲望や感情の作動と、(物理的な次元で?、無意識に)ほとんど自動機械として働く脳の自律的なシステムの作動とのズレから生まれるような作用だと言えるだろう。そして、その両者を架橋するために、いくつかの小説の部分をみてゆくつもりだ。例えば『ポラロイド』(柴崎友香)の次のような部分。
《木島さんはピーナッツをぼりぼり食べながら、別れた彼によく似た丸い目をわたしに向けた。似ていると思ってから、今、彼がどんな顔をしているのかは知らないことに気づいた。きっと少しは変わっていると思う。離れて付き合っているあいだも、そういうことをよく思った。何か月かぶりに会うと、そのあいだ毎日電話をしていたりすると余計に、こんな顔していたかな、と思うことがあった。昼間木島さんに初めて会って居心地が悪かったみたいに、電話で話しているとき、わたしは何か月か前の彼を想定していて、実際の彼を知らなかった。もちろんそんなに違うわけではないけれど、ほんの少しだけでも、確実にどこかは違う。そのずれは、実際に会ってみないとわからなくて、わかったときには驚くほど大きくなっている。》
ぼくはこの部分をとても面白いと思うのだが、ここには、現実の反映としてのイメージ(あるいは、現実に対応するための「実用的」なイメージ)が、純粋にイメージそのものでしかないイメージへとこぼれおちてゆく、その萌芽のような感覚が、とても的確に捉えられているように思う。ここにあるのは、記憶-イメージと知覚-イメージのズレであるのと同時に、他者へと向かおうとする原初的な感情の指向性だろう。この二つが、人に幽霊を見させるのではないかと思う。この部分では、人に幽霊や分身を見させてしまう作用の発生源である、最も根本的で、最もささやかな波立ちが、的確に拾われているように感じられる。
ここから、もう少しだけ「幻想度」が高くなると、次のような感じになる。(『金毘羅』笙野頼子より。)
《...もちろん、自分にしか見えないという事はちゃんと判ってるし、寝不足等の時の一瞬に過ぎない。原因も判る。目が悪い故の錯誤なのです。というか殆ど錯覚です。実物と見誤る程には見えませんし慣れると判ります。知らない神社の写真を見ていて、ふっと横を向くと泳ぐ龍が見える。目の隅に何かトぶから。でも普段は飼い猫と錯覚する影のようなものだけ。とはいえ、光源が錯綜した夜の階段のあたりで、例えば視野の隅をたまたま光が過ると、そして前日に御幣の一杯ある神社にたまたま行っていたりすると、「あっ、金の御幣」、となる。》
《慣れたものや何かを見ると同時に、たまに、以前そこにあったものを見たりします。といっても霊能力ではなく心の中の記憶がぱっと浮かぶのです。あるいは枯れ尾花的に見えるだけです。レストランの予定地にコックさんの影が浮かぶなどというのは多分どこかでチラシでも入っていたのを見てたはずなのです。記憶や欲望が一瞬浮かぶ時は、無論、それと現実の区別は全部つくのです。そう、私はただ目が悪いだけ。目の悪い金毘羅にふさわしい錯視をしているだけだ。》
「レストランの予定地にコックさんの影が浮かぶなどというのは多分どこかでチラシでも入っていたのを見てたはずなのです」という一文など無茶苦茶面白いのだが、ここでは「見えてしまう」ヴィジョンそのものについては、話者の「私」はとても冷静に距離をとって、分析的に対処しているのだが(「それ」は、私の関心と、私の身体の独自性-目が悪いことによって見えているに過ぎない)、しかし同時に「それ」が「見えてしまう」ということは(この引用部分だけではよく分からないかもしれないけど)「私」にとつてとても重要なことなのだ。神や神社に並々ならぬ関心があるから「泳ぐ龍」や「金の御幣」を見るのだし、どこかでチラシを見たからこそ「コックさんの影」を見るのだけど、しかしそのヴィジョンは「私」が意思的に、あるいは恣意的に「見たい」と思って見るのではなく、それが「寝不足等」の時に限っているとしても、いつ「見える」のか分からなくて、ある時ふっと「向こうからやってくる」ものであることが非常に重要で、だからこそそのヴィジョンは「私」にとって必要なものとなっている。ここでも、「私の意思」と「脳の自動運動」が分離されていることが重要なのだ。
この二つの例では、私と、私の外側にあるイメージとの関係が語られているのだが、ここで、視線が折り返されて、私と、私のイメージとの関係が問題になると、そこに分身が現れる。古井由吉の『白暗淵』では、分身の発生する予感と、その発生の瞬間の感触が的確に、かつ執拗に記述されているのだが、まだ本が見つからないので引用できない。(図書館で借りてきても良いのだが、「白暗淵」論を書いた時に使った、びっしりと描き込みのある自分の本じゃないと、引用したい部分がなかなか見つけられないのだった。)