府中市美術館の「トゥルー・カラーズ」という展覧会の、内覧会とオープニング・レセプション(展覧会は明日から)。
今澤正の作品を観ていつも感じるのは、「色を観る」ということの不思議さだ。ぼんやりと輝くような微妙な色彩の組み合わせによって出来ている今澤の作品は、文字通り「捉えどころがない」。微妙な色彩というのは、決して「憶えられない」。それは、展覧会から帰って来てしまった今、それを頭のなかで再現出来ないというだけでなく、今、絵の前にいてそれを観ているという時でさえ、画面のある部分を見ている時、その前に見た別の部分の色彩を正確には憶えていないので、ちょっと前に見た部分の色彩と、今見ている部分の色彩とを比較したり対比したりできない。今澤の作品において、微妙に違っているけど、非常に近い色彩の対比は、その両方が同時に目に入っている時でないと「違い」を感じられない。とするならば、今、その色彩を見ているという時に見ているのは、色彩そのものなのか、その「微妙なことなり」なのか。いや、このような二者択一には意味がなくて、「微妙なことなり」を見ることによってしか、その色彩そのものの感触を感知することが出来ない、ということであろう。目の前に作品があり、今、それを見ているというその時にこそ、もっとも強く感じられる、この「捉え難さ」の感触こそが今澤の作品の「意味」であり、絵から目を離した途端に、その作品があたかもこの世から消えてなくなってしまえうかのようで、「その感触」を頭のなかに留めることは難しい(今澤の作品は、図版での再現はまったく不可能だ)。
色を見ることは、物を見ることとはあきらかにことなっている。色を見るという時、キャンバスの上に塗布されている絵具を見ているのか、それとも、絵具を見ることによって頭のなかで生起している感覚を感じているのか、それとも、色を「見る」という行為の遂行のなかにいるということこそが「色」を出現させるのか。つまり、色というのは、それを見ている私の外側の「そこ」にあるものなのか、それとも「私」の頭のなかに現象として生起しているものを色というのか、あるいは、色を「見る」という行為そのものが(私と物との中間地帯に)「色」という感覚を生むということなのか。いやこれも、そのうちのどれか一つに特定されるのではなくて、この三つのことを、曖昧な境界のなかで(手すりのような掴まる手がかりもなく)揺れ動きつつ不安定に行き来しているのであり(その時のほんの僅かな手がかりが、色彩と別の色彩との境界であろう)、この不安定な揺れ動きのなかで、今澤の作品は、今、ここにいながら、「それ」を見るというだけで、ここではないどこかを出現させる。作品は、誰の目でもなく、自分の目で見るしかないものなのだが、このような質の高い作品(独自の色彩)を見るとき、自分が、今澤正の目になって世界を見ているというのか、自分の目が、今澤正の脳に繋がっているかのような感じがして、くらくらっと目眩がするのだ。
一つだけ文句を言うとすれば、展示スペースに対して、展示されている作品が多過ぎて、色彩が、それ自身の持つひろがりを充分に得られていないように感じた。出来るだけ多くの作品を観てもらいたいという気持ちはぼくも画家としてよく分かるのだが、あと一点減らすだけで、その色彩の持つ力がもっと強い力を得るというのか、もっとひろびろと開放されるように思った。
●今澤くんは、風邪をひいているらしくてだるそうな感じで咳き込んだりしていたし、大学の非常勤の仕事が今年度で終わってしまって、その先の予定が全然たっていなくてどうしようなどと言っていもたのだが、にもかかわらず、最近会ったなかではもっとも元気そうな感じだったというか、前向きな印象を受けた。