●『精神分析の四基本概念』は、内容としてだけでなく、文章として(というか、セミネールだから「語り」として)も面白い。例えば、「テュケーとオートマトン」という章の次の文、《先日私はちょっと休んで眠っていたとき、目覚めぬうちに何か戸を叩く音がしたおかげて目覚めなくてすみました》とか。ここだけ読むと、目覚めてないうちにした音を、目覚めてない時点での私が知っているかのようだし、その音の「おかげ」で目覚めなくてすんだというのも、ちょっと変な感じだ。しかし、この妙な感じの違和感こそが、ここに何かありそうだという予感を生む。このような面白さは、ラカン派やラカン入門(要約)では消えてしまう。とはいえ、この感じこそが、ラカンの理論家としての胡散臭さでもあるとも言えるのかもしれないのだけど。この部分は、次のようにつづく。
《先日私はちょっと休んで眠っていたとき、目覚めぬうちに何か戸を叩く音がしたおかげて目覚めなくてすみました。つまり、この慌てて叩くノックによって私は夢を見ていたのです。その夢はノックとは違うものでした。そして目覚めたとき、私がこのノック、この知覚を意識するのは、私がこのノックのまわりに私の表象全体を再構成するからです。このとき私は、自分がそこにいること、何時に眠り、この眠りに何を求めていたのか、こうしたことを知ります。このノックが私の知覚にではなく意識に達するとき、それは、私の意識がこの表象のまわりに再構成されたということです。つまり、自分が覚醒させるノックのもとにあることを、ノックされていることを、私が知るということです。》
ここで問題にされているのは、知覚と意識の間にあるもので、それが、知覚から意識に移行する間のごく一瞬に見られた夢としてあらわされている(この夢の内容は書かれていないが)。この一瞬の間の感触をこそ、最初の一文は捉えている。まず、何か(知覚)が「私」にもたらされる、というより、何かの訪れによって、私が「私の意識」となるために世界から分離しようとする動きの萌芽が現れる(眠りから覚めようとする)。そしてその一瞬後に、私は、世界を、私と切り離され、私のまわりに配置されている空間的、時間的因果関係として把握-構成する(私がこのノックのまわりに私の表象全体を再構成する)。何かの訪れから、表象全体の再構成(認識)までの、ごく短い一瞬、眠りから現実へと至るその間の一瞬にこそ、いわゆる「現実原則」という時の現実とは別の、その「下にある」「未決のもの」としての現実界に触れる。それは、眠りから覚めようとする働きを一瞬だけ押しとどめ、わずかに眠りを延長させようとする「夢」の遅延作用のなかにあらわれる。唐突だが、芸術とは、このような夢の代替物として、その遅延の場所を指し示し、そしてその遅延を発生させる、遅延をもう少し遅延させる、あるいは、その一瞬の遅延を継起的に次々と生み出す、ための装置と言えるのではないだろうか。眠りでもなく、現実でもなく、その「下にあるもの」に触れる感触。
引用部分は、次のようにつづく。
《しかしここで、そのとき私が何であるかを問わなくてはなりません。そのときというのは、ごくわずか前の、はっきりと区別されるその一瞬です。つまり、私が一見したところ私を目覚めさせるノックのもとで夢をみはじめた一瞬です。私は、私の知るかぎり「目覚めぬうちに avant que je ne reveile」の私です。》