●今、目の前にあって見えている柿のオレンジ色、見る度に、毎回新たなものとして立ち上がってくるその色の感触と、しかしそれが、今まで何度も見たことのある、「柿のオレンジ色」と同じ感触をもつものだと判断すること、つまり、そこにあるものは未知の果実ではなく、何度も見ているし、何度も食べている「柿」と呼ばれるものであることを認識すること。その都度、毎回新たにたちあがってくる感覚と、それが以前から知っているそれと同じものであるという同一性の確認の間にあるもの。
あるいは、今、鏡に写っている自分の顔に、ふと母親の面影がよぎる時、そこで「見ている」ものは、今、実際に見えている自分の顔でもなく、記憶のなかにある母親の顔でもなく、その二つのものの間を繋ぐようによぎってゆくなにか影のようなものであるということ。
あるいは、今、一瞬、目の端をよぎったものの動きや形から、それが以前から「犬」として知っている動物だと判断すること。いや、判断という言葉だと少し違ってしまうので、その、よぎったものの動きや形を、「犬」として知っているものだと把握すること、あるいは、その動きや形が「犬」としてたちあがってくること。
これらのことを、言葉を使って描写すると、同一性を保証するものを「柿」とか「母」とか「犬」とかいう言葉であらわすしかないので、このような認知には言語が介在しているように思えてしまうのだが、実際にはここではまだ言葉は介在されていなくて、「柿」とか「母」とか「犬」とかは、言語以前に掴まれる「イメージ(かたち)」のことだ。
その都度、見る度に感じられる「今、見ているオレンジ」の感覚は、常に「イメージ(かたち)」から溢れ出る過剰で不確定なものであり、今、見えているオレンジを「柿」として知っているものだと把握することは、その不確定な感覚のなかから同一性のしるしである「イメージ(かたち)」を掴む(掴み出す)ということだろう。
自分の顔のなかに母親の面影を感じとるというのは、既に記憶されている「イメージ(かたち)」の方から、何かがやってきて、今、見えているものの「イメージ(かたち)」の把握に影響を与える、ということだろうか。しかしその時、今、掴まれた自分の顔の「イメージ(かたち)」の方からも、なにものかが記憶の母親の顔の「イメージ(かたち)」の方へも流れてゆき、既にあった「イメージ(かたち)」も、新たに掴み直されるだろう。だから、鏡を見ている時に「見ている」のは、そのふたつの「イメージ(かたち)」の間を行き来し「動くもの」なのかもしれない。
一瞬、目の端をよぎったものを「犬」だと把握する時、見る度に新たに立ち上がる不確定な感覚は、顕在化するよりもはやく、一瞬のうちに既に知っている「犬」という「イメージ(かたち)」に結びつくので、あたかも、「犬」という「イメージ(かたち)」が、直接的に、それ自身で、いきなり立ち上がったかのように感じられるだろう。よく見てみると、それは実際には風によって飛ばされた紙切れであったということもある。しかし、それが「実は紙切れだった」と分かった後でも、目の端をよぎるものによって喚起された「犬」という「イメージ(かたち)」の生々しい実在感は、消えてしまうわけではない。
これらとはまたちょっと別の話だが、昨日スーパーで買って冷蔵庫に入れておいた肉と、今、冷蔵庫を開けてそこにある肉とが「同じもの」だと判断するという時、それは、見えている肉の「イメージ(かたち)」が、昨日買ってきたものと同じだということが「把握された」からというよりも、「昨日肉を買って冷蔵庫に入れた」という記憶と、「今、冷蔵庫を開けたら肉があった」という認識とのエピソード的な照合によってなされるので、そこで「イメージ(かたち)」の精度は、せいぜいそれが一般的に「肉」と言われるもののように見えるという程度の緩いもので充分で、それ(肉)は実際に見えているにもかかわらず、見間違いであった「犬」よりもずっと弱い「イメージ(かたち)」であろう。
これらのことは、すべて言語とは別の原理によって把握された同一性(と、そこからこぼれ落ちるもの)であって、言語的な認識による影響がまったくないとは言えないものの、それとは別に、切り離されて作動している。目の端に一瞬よぎったものとして把握される「犬」という視覚的な「イメージ(かたち)」は、言語として、例えば、狼、猫、人、テーブルなどという語との示差的関係(シニフィアン共時的な構造)によって決定されるシニフィエ(概念)としての「犬」とは、その把握のされ方がことなる。(おそらく、視覚的な認知は、かなりの割合で生物学的な次元で決定されており、フーコーの言うような、エピステーメーから受ける影響は比較的に少ないと思う。いや勿論、まったく影響されないはずはないのだが、一時、なんでもエピステーメーとかいって相対化する人文学的傾向があって、それに対する反発が強くのこってしまっているので、つい、こういう一言を付け加えたくなってしまうのだった。)
●例えば、小説のなかに「犬」という言葉が出て来た時、その「犬」がどのような次元で捉えられているのか(どのような「イメージ(かたち)」としてあらわれているのか)は、それぞれの作家、それぞれの作品、それぞれの部分によって皆ことなっているはずで、それをたんに「犬」という語の同一性だけでくくることはできない。その「犬」の、その時々の掴まれ方(あらわれ方)の違いや感触を、その都度丁寧に読み取る(掴み取る、感じる、味わう)というのが作品を読むということで、それをしないのなら、作品を読むということの意味がどこにあるのかわからなくなる。