セザンヌ主義展の図録のはじめに、エミール・ベルナールの撮った、1904年のセザンヌの写真が載っていて、これはセザンヌの画集などには大抵載っている有名な写真なのだけど、今までそれをしげしげと見ることはなかった。しかし、ふと見てみたら、セザンヌの眼差しが気にかかった。最初、ぱっと見た時、セザンヌはカメラのレンズから視線を少し外しているように感じられた。しかしよく見ると、セザンヌはカメラのレンズを(つまり、この写真を見ている人の方を)見ているように見えてきた。セザンヌの顔の左半分(向かって右半分)を中心に見ると、視線はレンズからやや外れたところにあるような印象で、しかし、右半分を中心として見ると、レンズの方を見ているように思われる。かといって、いわゆる斜視という感じでもなく、(顔ではなく)両目を中心に見ると、どうやらレンズの方を見ているというのが正解のように思われる。両方の目玉の関係を見ることで、レンズの方を見ているというが「正解」らしいと分かると、顔の左半分を中心に見てみても、レンズから視線を外していると思われた「あの感じ」は消えてしまっていて、普通にレンズの方を見ているように感じられる。しかし、しばらくこの写真から目を離していて、再びふっと見ると、その時の印象は、レンズから視線を外しているように思われるのだ。この印象の分裂それ自体がまるでセザンヌの絵を観るという経験のようなのだが、どうも、カメラのレンズから視線を外しているという印象は、その眼差しからくるのではなく、セザンヌのとっている姿勢も含めた、全体の佇まいから来ているんじゃないかと、とりあえず暫定的に思ってみた。
●人が、二つの目でものを見ているということ、そして、他人の二つの目の動きを見ることで、その人が何を見ているのか(視線)ということをも「見る」ことが出来るというのは、なんて複雑なことだろうかと思う。生まれたばかりの赤ん坊は、かなりはやい段階で、自分を見る眼差しを理解する、つまり、誰かが、私を「見ている」とを理解するらしい。しかしその時はまだ、その「誰か」は、半分以上は「私自身」でもあるのだろう。