●『にほんかいいもうとといぬ』(小林恵)では、犬の動きは速くて大きく、妹の動きは遅くて小さい。その、まったく異なる動きをする二者を、第三の人物であるカメラを持つ姉が、自らも動きつつ、その中間で媒介しているかのようにみえる。自ら進んで歩き、犬や妹の名前を呼んで注意を引き、こちらへ導くように引き寄せ、カメラで撮影することで関係づける。しかし当然のことだが、犬も妹も、自らのペースを貫きつつも、ただ勝手に動いているわけではない。開放的な砂浜で放たれた犬は、喜んで駆け出し、自由に動き回るが、しかし何度も、カメラを持つ姉や、その妹のところに戻ってきて彼女たちの傍らに留まり、そしてまた駆け出して行く。妹は、海辺にある様々なものが珍しく感じているのか、目の前にあるもののいちいちに引っかかり、自らの関心に夢中になって足をとめるが、姉が「あいこ」と呼びかけると姉の方を向き、姉の方へと進もうとする(しかし、すぐにまた、目先のものに関心を移してしまうのだが)。
強風と波の音が支配し、開放的なひろがりをもち、さまざまな表情のテクスチャーに満ち溢れた海岸という空間に、三つ(プラス一つ)の、それぞれ独立して作動する系列(犬、妹、姉+カメラ)があり、それらは、それぞれの関心や原理によってその空間とそれぞれ別々に関わり合うのだが、とはいえ、カメラを除いた三つの系列は、互いに対して関心をもち、愛情というか、愛着のようなもので結ばれている。
この作品において、カメラが捉える映像と音声(知覚)は、あまりに即物的で、過剰に生々しく、そして断片的でパースペクティブを欠いている。これは、人ではないカメラによってしか捉えられないものだ。観る者は圧倒的な知覚にさらされ、それらは目や耳に貼り付き、神経に鋭利に突き刺さるかのようだ。それは、新鮮でリアルであるが、あまりに過剰で、とりつくしまもない。それは金属質で、ギラギラして、刺々しくもある。ある意味、統合失調症的な知覚だとも言えよう。そのような知覚の過剰を浴びせられつつも、観客がその過剰に耐えられるのは、そこにいる(撮影者の含めた)三者がお互いに対してもっている愛情のある関心が映像のなかに確実に刻まれていて、それによって、それらの断片的でギラギラと尖った諸知覚がかろうじて束ねられているからではないだろうか。つまり、カメラによる即物的で統合を欠いた知覚と、その撮影対象と撮影者たちの間にある人間的(動物的?)感情とが、同等の強さで拮抗しつつ、同時並立している。ここには、人間-動物の「外」が露呈されているのと同時に、人間-動物の原理(感情、愛)が生きてもいる。この、相反するものの同居が、この作品を素晴らしいものにしているのではないか。
●それにしてもこの作品は、いきなりはじまって、いきなり終わる。このいきなり感には、観る度に驚かされる。もう十回くらい観ているのだが、それでも、この終わり方にはその都度かならず衝撃をうける。十回観ても、終わりが予想つかない。毎回、置いてきぼりをくうようにスパッと途切れる。これはすごいことだと思う。