●いただきものの素麺を茹でていて、もう、麺をお湯に入れてしまってから、麺つゆがないことに気づいた。どうしようかと思ったが、茹で上がった素麺を水にさらさずに、あたたかいままでお椀に盛り、塩、胡椒をかけて食べたら、けっこう美味しかった。麺つゆで食べるより、麺の味がよく分かる気がした。
●一日に行った「We dance」の会場で福永信さんとお会いして、帰りの電車でけっこう長い時間一緒だったので話していたのだが、福永さんがロメール好きということを聞いて、意外なようでいて、納得できるようでもあった。福永さんが、ロメールが好きだと言って最初に挙げたタイトルが『パリのランデブー』で、ぼく自身、今はロメールへの関心はほとんどなくなってしまっているのだが、この映画は今でも好きで時々観たくなるということもあって、ああ成る程、と思った。撮影の次元での、ロメール的な自然主義的なナチュラルさ、自在さと、脚本というか、物語(人物の関係)の次元での、ちょっと端正過ぎるんじゃないか(出来過ぎなんじゃないか)と思うほどの幾何学的整合性とが(あと、ちょっと嫌らしくもある皮肉とが)、あの、とても小ちゃくてささやかな形式のなかで、奇跡的に溶け合っているように思われる。(それに、出演している人たちがすべて素晴らしく、あの映画に出て来るピカソの「母と子」という絵が、ぼくはすごく好きなのだ。)
この感じは、福永さんがフリーペーパーの「早稲田文学」に連載している「三カ所」ととても近いようにも思われる。福永さんが、『パリのランデブー』について、他のロメールの映画について、細かいところまで、微に入り細を穿って話すので、ぼくも久しぶりにロメールが観たいという気持ちになった。で今日、銀座テアトルシネマまで『我が至上の愛アストレとセラドン』を観に行った。
なんというのか、ああ、ロメールだ、というしかない映画。テキストの次元での幾何学的な端正さが、撮影という次元で入り込む現実的な猥雑さと共存するのがロメールの現代劇だとすると、時代物のコスチュームプレイになると、よりテキストの幾何学性が強調され、出来事の起こる場が現実から掛け離れた象徴的な空間に移行する。とはいえ、撮り方はかわらずにリアリズムだから、すごい妙ちくりんになって、大自然の前で、下手な素人芝居が行われてるような感じになる(物語の構造そのものも現代劇と何もかわらない)。撮影されているのは現実の風景なのだけど、最初から最後まで、多くの場面で、すごいわざとらしい鳥の声が響きまくっていて、それによってリアリズムがもう一捻り、歪んでたりする。この、ひねくれたシンプルさはロメール独自のものだとは思うけど、でもぼくは『パリのランデブー』の方がずっと好きだけど。
観ている間、ロメールの映画にしてはあんまりエロい感じがなくて、やっぱロメールも歳とったということなのかなあと思っていたら、とんでもなかった。最後の方で、えーっ、と思って、こちらが引いてしまう程のエロエロ展開になって、呆れたというのか、さすがと言うべきなのか。セラドン役の男の子に女装をさせるというだけでかなり危うい(すごい微妙な女装で、ちょっと大島弓子の「七月七日に」を思い出した)のに、女装したセラドンと、彼が女装しているとは知らない(ことになっているが、見て分からないはずがない)アストレとを、あやしーい雰囲気全開でいちゃいちゃさせて、しかもそれが行われているのが教会の中で、さらに牧師公認でって、それまで延々と繰り広げられてきた愛についての神学的な議論とか何だったのか、という感じ。
ここで、アストレがセラドンの女装を見抜けないというのは、あくまでテキスト上の話で、視覚的には、誰が見たってそれセラドンでしかあり得ないでしょう、と分かるのだが、あくまでテクスト上では分からないことになっているから、アストレも自分が分かっていないと思い込むしかなくて、分かってないことに(自分に対して)して、セラドンを受け入れている、という風にしか、「映像」としてそれを観ている限り思えなくて、そこに、テキストと映像との隙間に生じる、おそろしく倒錯的な欲望が錯綜している。(わざとらしく、アストレの友人たちに、「あの人セラドンに似てる」ということをわざわざ台詞-言葉で言わせていたりするのも、ひねくれている。)セラドンの方は、一応真面目なフリをして、アストレからの「二度と目の前に現れるな」という命令(=法=テキスト)に忠実であろうとするのだが、実はたんにそれを破る「(自分に対する)口実」を探しているだけで、そうでなければ「女装する」なんていう提案を呑むはずはなく、しかも一旦「口実」が出来て、目の前にアストレが現れてしまえば、もう抑えはきかなくて、あとはエロが全てを押し流す。テキストと映像との乖離は、まさにエロのためにこそある(たぶん、ここがオリヴェイラと決定的に違う)。おそらく、最後の方の女装いちゃいちゃのシーンを撮りたいというだけでつくった映画に違いなくて、エロこそすべてっていう映画で、ロメールについて、呆れて物も言えない、というべきなのか、徹底して一貫していて、真に尊敬すべき人だ、というべきなのか。