●ある本を読んでいて、自分の今の態度を少し改める必要があるかもしれないと思った。今年はもう、作品の発表(展覧会)のことは考えるのをやめて、発表を前提とせずに、地味に、淡々と制作をしようと思った。勿論、もし良い話があればそれに乗ることはあるだろうけど、自分の方から、展覧会のために動くことはしなくていいんじゃないだろうか、と思った。画家がすべきことは作品を見せることではなく、たんに「つくる」ことで、それは通常のコミュニケーションとは逆のベクトルをもつ(このように思ったことと、その本の具体的な内容とは、あまり関係がないのだが)。
ぼくは、92年にはじめて個展をしてから、2003年以外は、毎年、何らかの形で作品を発表して(展覧会をして)いる。我ながらけっこう勤勉だと思う。無名の画家にとって、発表しないということは、存在しないということになってしまうからだ。でも、別に「存在しない」でもいいんじゃないだろうか。今年は、無理して発表のことを考えなくてもよいのではないか、今は、もうちょっと本格的に、出口の見えないところで制作する必要があるのではないだろうか、という感じなのだった。ちょうど、2003年もそんな感じで、自分のやっていることが何かしらの形となってちゃんと着地できるという確信のないままに、作品を人に見せることを意識しない状態で、まったくの手探りで、作品をつくりつづけていた。それは、行き詰まっていたということではなく、むしろ充実していた。その結果として、2004年のギャラリー・アートポイントでの個展(直前にある批評家の方の紹介で決まった、その紹介がなければこの年の発表もなかったと思う)は、ぼくにとってとても貴重なものとなった。残念ながらそれは、あくまで「ぼくにとって」に留まるものだったのだが。
最近の制作は、増々先が見えなく、何をやっているのか自分でもよく分からないものになりつつある。自分がやっていることが、いいのかわるいのかも、もう正直よく分からない。自分のつくっている作品について、何かを話せと言われても、明確なことは何も言えない。制作の時にあるのは、茫洋として掴みどころのない予感と、仮約束のような(破られることも、制作途中で変更されることもあり得る)手続き上のちょっとしたルールのようなもの、あと、まがりなりにも二十年以上は絵を描きつづけてきた自分自身の「描く機械」として身体の技能があるだけだ。一歩、一歩、一筆、一筆、その都度、確かめながら(しかし何を?)、迷いながら、あっちでもない、こっちでもないと、うねうね進み、ある地点にくると、突然それ以上は進めないという壁のようなものにコツンと突き当たり、そうなるととりあえずその作品は完成となって、別のキャンバスへと移行する。そしてまた、はじめからやり直し。その「壁」というのが、ある一定の達成と言えるのか、それともたんなる行き止まり、打ち止め、行き詰まりに過ぎないのか、それも分からない(ただ、明確に「これは駄目だ」というものは分かる、何故駄目なのかは分からないのだが)。やっていることは、増々、雲を掴むようなものになり、どこに向かおうとしているのか、何が出来ているのか(出来てないのか)、自分でもよく分かってないのだから、他人がそれを観てどう思うかなんて、ほとんど分からない。それを気にする余裕はない(あっちゃいけない)。自分の判断が、どのような原理によっているのかも、よく分からない。出来上がったものが、ちゃんと作品として「完成品」と言えるのか、そんなことは知ったことじゃない。とはいえ、なにかを「つくる」ためには、こうする以外にやりようがないということだけには、確信のようなものとしてある。意識とか知識とかは、常に遅れてやってくるもので(後から遅れてやってくるはずのものを、事前に先取り的に確保しようとするとそれがフレームとなり、そこに捕われてしまう)、つくっているその時にはあまり役にたたない。あるいは、それは作品をつくっている時に作動している大きな総体のなかのごく一部でしかない。ただ、ぼくが見ているものの先にあるものに導いてくれるのが、セザンヌマティスであるという予感のようなものはある。一番いけないことは、中途半端に分かり易い(説明しやすい、評価がしやすい)ところに作品(のフィニッシュ)を落とし込もうとすることだろう。
こんなだから、現代美術のシーンや文脈の中で自分の居場所が(評価が)ないというのも、それは仕方がないかとも思う。そこでは、多少でも分かってもらえる余地さえ、ほとんどないのではないかとさえ、最近では感じている。しかし、こういう感じ方こそがフレームに囚われてしまっているということでもあり、分かってもらえる「個人」がいるかも、という希望は勿論捨ててはいない。伝える相手(文脈)が事前に想定できなければコミュニケーションの行為を組み立てられない、みたいな考えが、今はびこっている最も唾棄すべき風潮だと思う。
●絵画作品の発表はなくても、写真の作品の発表は、こじんまりとした感じで良いので、出来ればいいなあと考えている。写真の作品とはいっても、それは本というか、アルバムのような形のもので、サービスサイズでプリントした写真をスケッチブックに貼付けてつくるものだ。ぼくはこの作品を学生の頃からずっと、断続的にだけど、二十年くらいはつくっているのだが、発表したのは学生の時の学園祭の展示でだけで(その時、絵画の作品よりも評判が良くて、ムッとしてそれ以降見せるのをやめた)、あとは数人の友人に見せた以外は、ほぼ誰にも見せていないものだ。だからそれは作品というよりは、プライヴェートな「日記」のようなものであるのだが。誰にも見せていないのに、つづけているということは、ぼくにとってそれは重要なもののはずで、絵画作品とも密接に繋がっているはずだと思う。
●とはいえ、ぼくにとって現実的に問題なのは、今年はどうするのか、というより、来月の生活費をどうするのか、ということなのだが。