●昨日、ネットカフェで調べたことを、お勉強する。ひたすらめんどくさい。それでもいくらかお金になるので。最近、増々、「興味がある事」以外のことをするのが困難になってしまっていて、こんなことでこれから生きてゆけるのかと不安になる。(そういえばぼくには、小学校から高校まで、家で勉強するという習慣がまったくなかった。宿題すらちゃんとやらなかった。教科書もノートも、基本的に学校に置きっぱなしだった。とにかく、一日の多くの時間を授業で拘束されるだけで耐え難いのに、さらにお勉強なんてしてられない、やりたいことやらせろ、という感じ。中学まではそれでなんとかなったが、さすがに高校の成績は悲惨だったけど。)
●うちには食器は、小さめのドンブリと箸と木製のレンゲ各一個と、あとマグカップがふたつあるだけで、皿もスプーンもコップもない。調理器具は、ガス台が一つと、鍋と(百円ショップて゜買った小さい)土鍋、ザルと果物ナイフしかなくて、フライパンもまな板もなければ、電子レンジもオーブントースターもないし、菜箸とかオタマすらない。炊飯器は壊れている。冷蔵庫はあるけど、中にはほとんど何もはいってない。調味料は、塩、胡椒と醤油だけで、砂糖すらない。にもかかわらず、ぼくは、飲みにゆく時以外はまず外食しない(お金がない)し、コンビニ弁当も食べない(すぐ飽きる)。カップ麺とかもあまり食べない。食べるものは、土鍋で炊いたご飯と、あと、買ってきた野菜とか魚とか肉とかに火を通して、塩こしょうか醤油をかけたものとか、納豆とか練り物とか、それくらい(フライパンがないし、サラダ油もないので、野菜炒めとか出来なくて、素材にただ火を通しただけのものに塩とかをかける)。食器が小さなドンブリしかないので、ご飯を盛った上に、おかずをのせる。面倒な時にはご飯のかわりに豆腐とかでも全然OK。調理(とは言えないものだが)時間も短くてすむし、火にかけているだけなので、その時間も別のことが出来る。すばらしく美味しいというものではないが、コンビニ弁当やスーパーのお惣菜よりは「飽き」がこない。出来ることがはじめから限られているので、今日は何を食べようかとかも、考えなくて済む。鍋も食器も一個しかないので、洗いものが楽というか、次に使う時に洗って使うので、基本的に後片付けしなくてすむ。
衣料をたくさんは持っていないので洗濯はこまめにするけど、基本、干してあるものを着て、脱いだものを洗濯機に入れ、それをまた干すので、洗濯物の取り込みとか、たたんだりとかしまったりとかしなくてすむ(ほとんど、干す=収納)。蒲団を敷いたり戻したりするのが面倒だし、シーツとかも洗わなくちゃいけなくなるので、寒くなければ、マクラだけ出して、床にそのまま寝たりする。どうせせんべい布団だし、そもそも、アトリエで制作中とかに、絵具だらけの床に横になって寝たりもするので、それでも全然大丈夫。
このようなシンプルさは、貧乏に強いられてのことだけど、でも、部屋をこぎれいに飾ったりする趣味がまったくなくて、物欲や美食への欲望も希薄で(コレクションの欲望とか、ぼくからもっとも遠い、整理するの嫌いだし)、なにより家事がひたすらめんどくさいので、家事をなるべくしなくてもよくするためには、極端に「物」を少なくするのが良いということに、長年の貧乏生活で気づいたのだった。「関心がある事」以外のことは出来るだけ何もしたくないという怠惰さの行き着く果てというのか。かといって、ぼくの部屋はシンプルに片付いたりは決してしていなくて、物で溢れかえって、どうにもしようがない状態ではあるのだが。その物(つまり「関心がある事」)とは、要するにキャンバスと本なのだった。