●『残菊物語』(溝口健二)をDVDで。ツタヤの半額クーポンの期限が昨日までだったので、何本かまとめて借りてきたうちの一本。何度観ても、これは凄い。溝口だからすごいというより、溝口の映画のなかでもとびぬけてすごいと思う。三十年代後半くらいの時期の溝口の面白さっていうのは、物語とか、俳優の演技とかの次元では、新派とか歌舞伎とかの人情ものの流用でしかなくて、さらに、あの(大掛かりな)セットの空間やその中での俳優の配置や動きにしたって、モダニズムを通過しているとはいえ、結局は歌舞伎とかの舞台から多くを得ているに過ぎないにもかかわらず、それが「映画」という新しいメディウムのもとで統合されると、まったく「別のもの」が、そこから立ち上がってきてしまう、そのたちあがる瞬間そのものが刻み付けられている、ということの驚きにあるように思う。既にある古臭いものが、映画という新しいテクノロジーによって、まったくことなる統合のされ方をして、ことなる様相がみえてくる。古いものから、今まで見たこともなかった何かがぐぐっと生み出されてくるその様を、撮影しながら、その「何か」こそを溝口は見ていたのではないだろうかと感じられる。映画のなかにある「要素」は、ほとんど全て既にある歌舞伎的、新派的、講談的なものだが、新しいものとはつまりそれを捉えるテクノロジーで、カメラであり、録音機であり、照明であり、カメラが動くこと、カットをいったん区切ってカメラの位置を変えることが出来ることであり、マイクが様々な音を拾い、あとから合成出来ることであり、何度もテイクを重ねることが出来、一度撮影し、録音したものは何度も再生できることであろう。古臭い要素が、こられによってまったく新たに編成し直される。そのことのひとつひとつに溝口は、撮影しながら、その度いちいち驚きをもち、興奮し、震えていたのではないだろうか。
『残菊物語』では、(ヒッチコック的な意味での)「演出」はほとんど問題にされていないように思う。全体の構成とか流れとか、抑揚とか、全体のなかでのこのシーンの意味や効果ということとは関係なく、とにかく、あらゆる場面、あらゆるカットで、ほとんど無茶振りとしか思えないくらいの全力のフルスイングで振りまくっている感じなのだ。打球がどっちに飛ぼうが、空振りしようが知ったことではない、それどころか、強く空振りし過ぎて腰を痛めてしまってもかまわない、次の打席のことなんか知るか、というくらいの無茶っぷりというのか。このような無茶が可能なのは、溝口の撮影所内での地位や権力の増大によってなのだろうが、そのことはとにかくとして、その無茶っぷりのことごとくが凄いのだ。その無茶っぷりによってこそ、その都度、ワンカットごと、ワンシーンごとに映画が発見されてゆく感じ。(もっと後期の、『近松物語』とか『祗園囃子』とかになると、もちちょっと全体の調整みたいなのが意識されている感じで、それはそれで良いのだが、その分「凄み」のようなものは目減りしているように思う。)
『残菊物語』では、主演の花柳章太郎がスイカを食べる場面がある。この場面が特にすごいということではないが、花柳章太郎が包丁でスイカをざくっと切り、スイカの汁で手がべたついた感じの動きをして、切ったスイカを口にいれてサクッと音がする映像を見聞きすると、ああ、七十年前に人がスイカを食べるところを、今、ぼくは眼にしているんだ、という何ともいえない感慨に襲われるのだった。七十年前の、しかもフィクション上の人物が(その物語上の芸事の世界の成り立ちも、人物の囚われている価値観も、喋り方も、今とは随分違うのだが)、現在、ぼくがスイカを切ったり食べたりするのとまるで同じようにしてスイカを食べていて、その様が、今。目の前にあるテレビのスクリーンに再生されているのだ。描写ってすげー、と思うのだった。