●恵比寿ガーデンルームに、東京芸術見本市・インターナショナルショーケース(神村恵、鈴木ユキオ、手塚夏子)を観に行った。神村恵のダンスはとても面白いのだが、一体、それの何処が面白いのか、何故ぼくはそれを面白いと感じるのか、が、ぼくにはまだよく掴めていない。
例えば、次に踊った鈴木ユキオという人のダンスは、とても分かり易くダンスであるように思えた。それは、パントマイムを精密にしたような感じではじまり、人間の動きを自動機械化(人形化)することが、動きにある種の表現性を呼び込み、同時に、その動きが人間に身体に強いる負荷の高さが動きに緊張を漲らせる。そして次第に、機械化した動きの表現性から、もっと複雑な動きへと拡張し発展してゆく。それはあくまで人間の身体-動きが、その隣接する外側(自動機械人形のような)の動きに触れ、それを取り込み、取り込まれた動きがまた別の動きを呼び込んでさらに発展してゆくような拡張性をもつように思われた。途中でダンサーは服を脱ぎ、終盤は上半身裸で踊ったのだが、裸だと、このような動きをする時は、こことここの筋肉が、このように連動して使われているのだなあ、ということがよく分かって、一見なにげないような動きでも、それを支える筋肉の負荷の大きさとバランス感覚の精度の高さの必要性がよくわかって面白かった。そのような意味でも分かり易い。
しかし神村恵のダンスは、はじめから「人間」を離脱しているかのようだ。人間が、人間以外の動きを模倣するのではなく、人間のからだが、人間ではない動きをする、というのか。人間のからだが、人間が元になっていない動きをするというのか。いや、確かに人間がするような動きが含まれているのだが、ある動きが別の動きへと発展していったり、一つの動作が身体の別の場所へ伝播したり、ある動きがことなる姿勢のもとで反復されたりする、その発展や反復のつながりかた、展開のされ方が、人間的なものが基準にされていない感じなのだ。テレビでやっていた「ピタゴラスイッチ」の装置みたいにして、一人のダンサーのなかで動きが連動し、伝播し、発展してゆく。だからまったく優雅とか優美とかではなく、とてもガサツとも言える感じで、どたん、ばたん、ふわっ、ぐしゃっ、ぺこっ、みたいに動きが連なっている。全体を通してのテーマとか意味的関連みたいなものもおそらくあまりなくて、ある空間のなかの一つの動きがあって、そのバリエーションや発展がいくつか試されたら、次に唐突に別の位置で別の動き-モチーフがはじまる。バケツの隣りにスイカが置かれ、スイカの隣りにはスノコが置かれ、さらに隣りに逆さにされたストーブが置かれる、みたいにして、時間と空間のなかに動きがぼこぼこっと配置されてゆく。その感じが、他に観たことがないような、なんともいえない、そっけない面白さなのだった。なんでこんなに面白いんだろう、と思いながら観ていた。それと、今日のダンスは、「うわっ、あれ絶対すごい痛い」というような大技が多かった気がする。
手塚夏子のダンスは、前に門前仲町のホールで観たときと同じような感じだった(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20070331)。「肩甲骨の内側、皮膚よりもなかの方に黒いエネルギーの塊があるのを意識する」とか「こめかみが生え際に近付いてゆく」とか「左尻を起点に顔を四十五度右に傾ける」とか「顎の所に意識をもってゆくのに時間をかける」とか(記憶で書いているので正確ではない)、そういう身体の状態を指定する言葉がダンサー自身の口やスピーカーから発せられ、ダンサーは、その言葉がなければほとんど意識されないような微細な動きをする。ここで、スピーカーからの言葉とそれとは異なるダンサーの言葉とが重なったりもするし、必ずしもダンサーが言葉通りの動きや意識をしているわけではないようだ。
ダンサーの動きは、日常の場面にある動きがもとになっているようなのだが、それがどのようなものだったか特定が難しいほど、それは細かく分解され、検討し直された上で、新たに組み合わせられているようなのだ。しかし、もともとの動きがすでにとても微細なもので、印象としては、ほとんどダンサーは動かず、言葉の重なりやズレこそがダンスであるような感じさえする。おそらく、会場が広過ぎて、ぼくがダンサーから遠過ぎたこともそう感じてしまった原因だとは思うが。もっと狭いスペースで、ダンサーと近い距離でないと、ちょっとつらい感じもした。
●会場でもらったチラシで、3月20日と21日に、千歳烏山で、手塚夏子の振り付けで神村恵が踊り、神村恵の振り付けで手塚夏子が踊るという公演があることを知った。