●酒の量が大幅に減ったせいか、時々、からだが強烈に甘いものを欲しているのを感じることがある。スーパーで買い物している時、衝動的に和菓子やクッキー類を沢山買ってしまい、帰ってそれをむさぼるように食べたら、後で気持ちが悪くなった。
●原稿のためにDVDを観る。傑作と名高い作品だけに、改めて観てもいろいろと思うところが多かった。ずっと禁酒していた男が、悲痛な事実を知らされているうちに(切り返しがつづくうちに)、いつの間にか酒を飲んでしまっている、という場面があって(そこで、完璧に男のスイッチがはいってしまうのだが)、本当に、ふと気づくと、あれっ、飲んでる、という感じで(思わず巻き戻して「飲み始める瞬間」を確認してしまったのだが)、男が酒瓶をあおるのをやや俯瞰ぎみで捉えた、決定的な瞬間がごくあっさりと訪れてしまうカットには、すげーと思って、鳥肌がたったのだった。その直前の、遠くから人が徐々に近付いてくる、そのゆっくりとした時間の長さを、二人の男の会話と同時に示している場面も、かなりすごい。しかし同時に、どうしても呑み込めない違和感のようなものも、この作家の映画をつづけて観ていると、どうしても誤摩化し難いものとして膨らんでゆくのだが。
●原稿のために、この映画作家の作品をDVDであと三本観る必要がある。明日、いままで観た分を返却して、あと三本を借りてきたい。あればいいけど。
●川部良太さんからいただいた大学院修士課程の修了論文を読みながら、トークのことやその他いろいろ考えていた。ぼくが先月書いていた作家論とも、一部関心が重なるところがあるようにも思えた。そこに引用されていたダイ・ヴォーン「光あれ--リュミエール映画と自生性」という論文が面白そうだったので、それが収録されている『アンチ・スペクタクル/沸騰する映像文化の考古学』という本を注文してしまった。しかし高い。
●去年の暮れ頃までは、映画への関心はほとんどゼロに近くなっていて、たまにDVDなどを借りてきて観ても、最初の数分を観るだけでどれも白々しいとしか思えなくて(「映画」という前提を無条件に押し付けられているとしか感じられなくて)、すぐに観るのをやめてしまうような感じだったのだが、ぼくが感じているリアリティと、映画の間にある大きな溝に、繋がりを通してくれたのが、今年のはじめに観た『亀』(池田将)という作品だった。とはいえ、現在公開中の映画を調べてみても、ツタヤの新作の棚の前を歩いてみても、観たいと思うような作品がほとんどないことにはかわりないのだが。