千歳烏山のstudio GOOで、「神村の手塚と手塚の神村」。15時からの回。住宅街のなかにある普通の住宅みたいな建物の玄関を入ると、二階分吹き抜けになった小さなスタジオがあらわれる。高いところに二カ所、窓があってカーテンがかかっていて、その窓が網戸になっているので、風で、カーテンがふわっと膨らんでは、網戸にペタッとひっつく、膨らんでは、ひっつく、ふわっと、ピタッと、というのがずっと繰り返されていて、スタジオにはいってからずっと、そのカーテンの動きに魅了されて目が釘付けになる。
神村恵が振りつけた手塚夏子のソロと、手塚夏子が振りつけた神村恵のソロ。面白かった。なにがどう面白いのかはよく分からないのだが、ぼくには神村恵のやることは、何故かそのことごとくが面白く感じられる。ごく大雑把な言い方しか出来ないのだが、手塚夏子にとって、動きを探ったり見つけたりする原理は内観的、内発的なところにあり、対して、神村恵は、空間的で即物的であるように感じられる。手塚夏子にとって空間とは身体の広がりであり、身体各部の動きのメカニズムの繋がりや切断の在り方であり、動きはそこから出て来るようにみえる。神村恵にとっては、まず身体の外側にある空間と物があり、その身体の外にあるものの動きを身体が模倣したり取り込んだり、あるいはその物と身体とが関係した時に、動きが発見され、生まれるという感じなのだろうか。手塚夏子においては、内発的に生まれた動きが分解され、(内観的かつ外在的に)吟味され、反復され、変奏されてゆくのだが、神村恵では、一つ一つの動きが独立してあり、それらが物が配置されるようにボコボコッと並べられる。しかし、こんな大雑把で図式的な物言いでは、そこで行われていることの面白さを何も捉えられてはいないだろう。
ダンスの後に「おまけ」として、二人が、それぞれが考えた共通の「お題」(向きたいと思った方向とは違う方向を向く、とか、足を顔だと思い、顔を足だと思う、とか、)を出して、二人が互いを見ずにそれぞれ言葉から導かれた動きをする、という実験をやっていたのだが、この実験の主旨は、同じ言葉でもその言葉が指す意味(その言葉から受け取る意味の範囲)がそれぞれ違うということを確認するということだったのだが、ぼくが見ていて感じたのは、そこで示された「言葉」と、その言葉によって触発された身体の「動き」との関係性の不思議さで、つまり、その動きを見て「言葉」を当てるのはほとんど不可能で、ということはつまり、ダンサーがある動きをする時に内的に感じていること、その動きを導き出す感覚を、その感覚の移り行きを、観客がその動きを外側から見ているだけでは決して分からないのだなあ、ということで、つまり、ダンスを「する」ことと、ダンスを「見る」こととは、まったく別のことで、それはそれぞれアサッテの方向を向いており、その視線は重なり合うことはないのかもしれない、ということだった。でも、それはそれでよいというか、だからこそ面白いんじゃないかとも思う。ある動きを見ることの面白さ、そこで何かが触発されることは、その動きをするダンサーの考えを理解することとは別のことだろう。しかし同時にそれは、まったく異なった、その間に何の通路もないものだということではなく、ダンサーの内観、感覚と、それを見る観客にとっての面白さ、感覚は、それぞれバラバラな方向を向きながらも、そのダンスが行われる空間と、ダンサー自身の身体(の外観)という「場」を共有している。別の方向を向き、別のことを考え、感じながらも、同じ場所にいる。あるいは、ある共通した内実のない純粋な流れ-動き-配置-記号のなかに、それぞれに異なる内実が生きられている。これはとても面白いことのように思われる。
それにしても、手塚夏子の振り付けによって、外在的な空間の分節を奪われた神村恵の動きはすごかった。外在的な視点を封印されることで、ダンサーとしての神村恵の潜在的な力が内側から沸き出すように引き出されているように感じられた。ある動きから形が生まれ、その生まれた形がすぐにぐしゃっと潰れ、また別の形が湧き出てきては、ぐしゃっと潰れる。部屋でくつろぐように横たわるダンサー。そこには、クロッキー教室のモデルが、自分のポーズを確認する時みたいな、ある形を決める前の、形をもとめる微かな揺れ動き、ゆらぎが最初にあって、それが増幅され、形が生まれては潰れるような行為が繰り替えされつつも、徐々に何かがせりあがっていって、ふいにダンサーがぐわっと立ち上がった瞬間には、おおーっ、と思った。出来ればクロッキー帳をもっていって、ダンスの間ずっとクロッキーさせて欲しいと、すごく思った。この動きを、ただ見るのではなく、描くという行為を通じて把握したい。いや、把握という言い方は何かを支配する感じなので良くなくて、そこで起こっていることの流れというか波動を、線を引くという行為を通じてこちら側にも引き込ませて欲しい、という感じだろうか。