茅場町gallery Archipelago映画作家の川部良太さんの作品の上映(「どちらでもない場所で」川部良太映画個展http://www.archi-pelago.net/exhibition/exhibition_next.html)があり、終了後のトークイベントに呼んでいただいて、話をした。客席に、予備校時代の古い友人を見つけて驚いた。顔を見るのは何年ぶりだろうか。しかし、トークが終るとすぐに帰ってしまい、挨拶すらもできなかった。
●川部さんの『そこにあるあいだ』は、一方で明確なコンセプトがあり、それに基づいて非常に複雑な映像と音声のモンタージュが仕組まれているのだが、もう一方で、映画を観ている時の感触としては、二組の兄弟が、ドライブしたり、久しぶりに会って気まずそうにしていたりする時間が、ただ、だらだら流れていて、その微妙な描写の感触こそを味わうような映画でもあり、そしてさらに、平坦な時間が流れている、山場とか波乱とかのない禁欲的でアンチクライマックスな作品かというと必ずしもそうではなく、けっこう感傷的なところもあったりして、そのような様々な矛盾するような要素が、齟齬をきたすというよりも、ふわっと共存してしまっているようで、だからこそ映画を観ている間は、作品から発せられる諸々の感覚的情報を、観客としてどう受け取って、どう解釈すればよいのか分からないまま時間を過ごすことになり、その、混乱という程ではないにしろ、不確かな(軽く不安ですらある)時間のなかで、この作品を観るという固有の経験が観客それぞれのなかで芽生え、育ってゆくというような作品だと思う。
とはいえ、決して「有名」なわけではない作家が、人に、わざわざ遠くまで足を運ばせ、90分もの時間を要する作品を「観たい」と思ってもらうためには、その作品について、ここが面白いとか、こういう風に考えてつくったとか、前もっての何かしらの分かり易い説明なり勧誘なりの言葉が必要で、実際、川部さんは自作についてとても明解にそのコンセプトを語る人である(トークでも、喋りはじめるととまらない感じだった)。ただ、言葉というのはやはりとても強く人の感じ方を規定してしまうもので、作品を観るよりも「前」に、それを説明する「言葉」があってしまうことの危険というのもあるのだなあ、と思った。トークの後の打ち上げの時にある人が、事前に川部さん自身の書いた作品の解説を読んでしまったので、その解説に引っ張られて、その線でしか観ることが出来なかった、と言っていた。
『そこにあるあいだ』での川部さんのコンセプトは、決して作品の仕上げや結果を規定するものではなく、作品が動き始める起動部分に関わることで、それはコンセプトを目的とした作品ではなく、コンセプトは作品を「始める」ためのものだということは、作品をつくる人になら割とすんなり呑み込めることだとは思うのだが、とはいえ、自分のこととして考えてみると、もし事前に解説を読んでいたら、この映画への感じ方は少し違っていたかもしれない、とも思った(そこには、この映画をはじめて観た時に感じた不安や迷いが解決するようなことが書かれているから)。だいたいぼくは字を読むことが嫌いで(本を読むのはそこで「面白いこと」に出会えるから、あるいはその予感や期待があるから仕方なく読むのであって、「読む」ことそれ自体は面倒臭くて仕方がない)、説明書とか解説のたぐいはまず読むことはなくて、川部さんからDVDを送っていただいた時にも、添付されていた解説を読むこともなく、いきなり作品を観たわけで、そもそもこのトークをお引き受けすることを決めてから読んだのだった。まあ、それは実際失礼な話ではあるのだが、結果としてはよかったように思う。
ある作品にはじめて触れる時の、不安や重圧というのは、けっこう重要なことだと思う。「これをこう感じるのは自分だけなんじゃないのか」「明日になったら全然別の感じ方をしているんじゃないだろうか」「今感じているこの感覚はたんに何かを見落としていること(無知)からくる勘違いなんじゃないのか」「そもそも自分には、この作品を受け取れるだけの度量(感性)が備わっているのか」等々の不安のなかでしか(その場所での試行錯誤によってしか)、人は「作品」に出会うことが出来ないとぼくは思う。作品を理解することで所有し、支配しようとするマッチョな欲望ほど作品から遠いものはない。その不安は、作品の外にある言葉によってではなく、作品そものもに触れることを通して、その経験のなかでしか解消されない。というか、そもそも生きている限り、これらの不安が完全に解消されることはないのだと思うけど。作品に直に触れるということは、決して、たんに感覚の直接性、現前性のことだけを言うのではなく、認識や判断の前にあるその「根拠(の頼りなさ)」への不定形の不安を、作品経験の外側にある作品とは別ものの根拠(解説なり、俯瞰的な見取り図なり、学習なり、「現実」なり)に頼ることで解消することなく、その不安のなかに留まりつつ、固有な経験を組み立ててゆくことだと思う。
●人はどうしたって、前の世代を否定的な媒介として成長するという側面があり、ぼくなどはどうしても、酒の席で熱く「真面目な話」を語り出すということは、おっさんが酔っていきなり世界経済の話をしはじめるのと同様にとても恥ずかしく鬱陶しいことだという感覚が抜き難くあるのだが、おそらく十五歳以上年下だと思う川部さんやその友人たちと同席する機会を得たことで、それは決して恥ずかしいことではないのだ、というか、それをする恥ずかしくないやり方があるのだ、ということを、今更ながら教えてもらえた気がする。