磯崎憲一郎「絵画」(「群像」五月号)。ものすごい密度とめまぐるしい飛躍。冒頭から延々とつづけられる川辺の風景(しかしこれを「風景」と言ってしまってよいのか、「風景」とは別の何かなのではないか)の描写には、この作家がいままで書いてきた小説のすべてがここに凝縮されているかのような密度がある。その風景は、橋の上からそれを見ているであろう「画家」と呼ばれる人物へと引き継がれる。冒頭の風景の描写は、画家の主観では勿論ないが、画家がそれを見ているはずの風景であり、画家が存在する場所を示すものとしてあったと、とりあえずは考えてよいかもしれない。しかし、冒頭からここまで読んできた者の印象としては、画家がこの風景を見ているのではなく、この風景の描写そのもの、その持続と密度こそが、本来は誰もいなかったはずのその場所に、「画家」という存在を出現させたかのように感じられる。ウグイスの鳴き声から、「まるでサメのようだ」というつぶやきへの唐突な飛躍は、無人の場所から人物が生まれ落ちる時の、その飛躍をあらわしている。この飛躍にはまるで、人類の誕生そのものであるかのような強い力が込められているように感じられる。
無人の場所から人物が生まれたことで、それ自身として存在していた風景が、人物によって「見られたもの」としての風景へと変化する。「視点」が誕生したことによって、風景そのものまでもが変質したかのようだ。そして、一つの視点、一人の人物の誕生は、すぐに、複数の視点、複数の人物の誕生へと連鎖してゆく。風景を見て、それについて赤ん坊に話しかける母親と、その母親を見る赤ん坊。そこであらわれる、視線と風景と人物との関係は、一人で風景と対峙する画家とま、異なる視線のあり様を示し、異なる視線によって捉えられた別の風景のあり様を感じさせる。そして、その母子の存在は、二人を見る画家の眼差しにさえも変化を与えるかのようだ。さらに、初老の夫婦の出現が、画家が立っている基盤である橋に不安定な「振動」をもたらす。この振動もまた、初老の夫婦の出現以前にはこの世界になかった新たなもので、それは初老の夫婦の出現とともに世界に付け加えられたものだ。そしてまた、橋の上を通り過ぎる、自転車に乗った父と娘が、世界に新たな運動性を創造するだろう。新たな人物の登場が、世界に新たな様相を付け加えるのか、それとも、世界そのものが新たな何かを創造することで、新たな人物という形象が生まれるのか。とにかくこの小説では、飛躍があるたびに、新たな何かが「生まれる」。あるいは、何が生まれる時の飛躍や力が、刻み込まれている。
そして、バスのなかからその川辺を眺めている女子高生へと視点が飛躍すると、この、川の周辺だけを描いている小説に、ほとんど宇宙的と言っていいほどのスケールが生まれる。そのスケールの大きさは、何も、ここに地球や太陽に関する記述が唐突にモンタージュされるからという理由だけではないと思われる。それよりも、それぞれの細部の充実と、細部と細部との関係が、つまり、人物と風景の関係、マルハナバチとハルジオンと風の関係、コイとカメとシラサギの関係、自転車の少女と「人魚の島」と画家の関係等々が、そしてその各細部の飛躍の連鎖のあり様こそが、宇宙的なスケールを生んでいるのだと思う。これだけ短い小説のなかに、これだけ大きなスケールを内包させることが出来るというのは、とてつもないことではないかと思った。
●池袋のモンゴル料理店で羊の肉を食べた。羊も美味しかったけど、モンゴルのお酒は、どれも皆すごく美味しかった。