●「ちい散歩」。地井武男が道を歩いていると、どっかのおばちゃんが声をかけて、近くに是非見てほしい庭園があるとかなんとか言って案内するというか半ば無理矢理にひっぱってゆくのだが、そこは別に何と言うこともない普通の庭で、また、その庭の持ち主のおっちゃんが無駄に饒舌で、「池の金魚を鷺が食べに来る、それで写真でも撮ってやろうと思ってカメラを構えると逃げてしまう、それで言うんですよ、サギだ!、って」というつまらないシャレを言って自分で爆笑し、地井武男も、長いわりには大した話じゃねえなあ、と呆れつつ愛想良く笑って対応して、そういうどうでもいいことが平気で放送される。さらに、踏切を渡る時、地井武男は突然、電車が通った後の線路は熱くなってるんだ、とか言い出して、遮断機が上がるとそそくさと線路内に立ち入り、しゃがみ込んで線路に手で触れ、カメラの後ろにいるディレクターだと思われる若い男性に向かって、ほらな、あったかいんだよ、面白いだろ、と嬉しそうに言う。以前に見た時は、幼稚園だか保育園だかの前を通った時、金網越しに中にいる一人の子供に話しかけると、そこいた大勢の子供たちから一斉に、「あっちいけ!」「あっちいけ!」と大合唱されたりしていたし、道祖神の前で、道祖神の由来について一通り語った後、こんな誰でも知ってることを偉そうに言っても仕方ないか、と反省して少ししゅんとなると、カメラの後ろから、いや、そんなことないですよ、と声が聞こえてきたりした。そういうのが、そのまま流れる。
●散歩していたら、市役所の前の、河川敷が広くなって背の低い草で芝生敷きの広場みたいになっている場所で、大勢の人が集まってゲートボールをしていた。最近、ゲートボールって珍しいなあと思ってよく見ると、微妙に違っていて、クラブとボールはゲートボールのものだが、ルールはパターゴルフのようなものらしくて、ゲートをくぐらせるのではなく、フリスビーゴルフのゴール(?)みたいなもの(ボールが入るように蜘蛛の足状の骨組みだけでできたザルのようなものが地面に伏せられて、そこから棒が延びて旗が立っている)が地面に刺されていて、そこに向かってパッティングしているようだった。
大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の第三章(「新潮」07年7月号)。第三章のはじめの方では。めまぐるしいばかりの「置き換え」や「位置の移動」があり、そこに無数の異なるフレームの浮上と、あるフレームから別のフレームへと次々に移行する運動が畳み込まれる。「現実」から書かれたものへ。原文から翻訳文へ。小説から映画シナリオへ。映画シナリオから地方の演劇へ。神聖ローマ帝国から四国の森へ。あるM(ミヒャエル・コールハース)から別のM(メイスケ)へ。さらに「メイスケ」から「メイスケの生まれ変わり」へ。「メイスケの生まれからり」から「メイスケ母」へ。生前の「メイスケ母」から「メイスケ母」の御霊へ。義母から母へ。母から祖母へ。歴史的記録から民間の伝承へ。「M計画」から「サクラさん」へ。「サクラさん」から「アナベル・リイ」へ。ポーからナボコフへ。アナベルからロリータへ。詩(ポー)から八ミリ映画へ。八ミリ映画から詩集(ボードレール)に挟まれた写真へ。置き換えとは、異なるものが重ね合わされ、移行することだが、そこでは、何か同一なものが受け渡されるのと同時に、別の何かへとズレ込むことであり、そこにはズレがあり、軋みが生じる。根拠(オリジナル)だと思われたものが、別のものへと重ねられ、置き換えられることによって、根拠-中心がいつの間にか他所へとズレ込んでゆく。逆に言えば、遡行によって辿り着いた根拠(オリジナル)は、既に他の何かの書き換えであることが、更なる遡行によって知れる。様々なフレームが重ね合わされ、ズレを含みながら移行し、それらが反響し、軋み合ううちに、今、ここという位置、あるいは固有性は見失われる。小守は、駒場の美少年であると同時にやり手の国際的プロデューサーでもあり、老人でもあり、サクラさんは、経験をつんだ中年の女優であると同時に少女スターであり、アナベル・リイを演じた無名の少女でもある。「私」は、老人であると同時に中年の危機を迎えた作家であり、駒場の学生でもあり、ある写真から性的なショックを受けた松山近くに下宿する高校生でもあり、母の下半身の熱を感じながら田舎芝居の舞台に立つ少年でもある。
とはいえ一方で、この小説には依然として「ほのめかされた謎」があり、その謎への求心力が、ここまでの小説そのものの推進力になっていることも見逃せない。しかしそれは、本当には「謎」なのではない。それは、小説冒頭の「ほのめかし」によって誰もが気づいていながらも、共通の了解によってあえてそれを「口にしない」ことで場が成り立ち、緊張も持続されている、というようなものだ。あきらかな「気がかり」がそこにあり、そこへ向かって言葉が組織されているのはミエミエなのにも関わらず、あえてそれは口にはされない。そしてそのことが、この小説に何とも言えない「猥褻さ」を生んでいる。そしていよいよ、第三章も終わりに近付いた頃にようやく、その事実が読者に開示される。じらされたあげくに開示された情報は、勿論、意外なものではなく予想通りのものだ。この小説の特徴である情報開示の遅延は、例えば、サクラさんに初めて会った数寄屋橋の場面での「私」の赤面の理由が、三章の終盤でようやく明かされるといった風に、高度に操作的であると同時に、固有の「場面」という概念を解体するようなもので、それはこの小説の記述の非現前的(非描写的)性格をよく表しているように思われる(ただ、この性格はこの小説の支配的な性質ではなく、これとまったく逆向きの強い現前性へのベクトルも同時に働いており、この複雑さ、屈折こそが、この小説の面白さなのだが)。
しかしこの期に及んでもなお、サクラさん本人は直接その「気がかり」を口にすることはない(とはいえ事実上、サクラさんの分身であるような柳夫人によって口にされてはいるのだが)。そしてそのことが、「私」に、そして読者に、「萌え」を引き起こさせるのだが、ここで働く、配慮や恥じらいの磁力は、上品なものというよりも、むしろあからさまに卑猥でポルノグラフィックなものであるように思われる。