●今日も午前中にがっつり制作。朝起きた時は、頭がリセットされていて、まだ、日常的な用事や雑事、様々な心配事や気がかりなどに頭が染まっていないから、起きてすぐ、食事もせず、コーヒーか野菜ジュースを口にいれただけで制作をはじめるのがいいみたいだ。
●線が色彩をもつことの意味。異なる色彩をもった線と線との関係。手がかりとしての植物の形態と色彩。そこでひらかれる空間。ひろがりをもたない色彩(線)と、ひろがりをもつ色彩(色面)との関係。エッジから中心へと向かう色彩と、中心からひろがってゆく色彩。あるいはまったくフラットな色彩。それらの絡み合い(関係)から見えて来るもの。線は運動感覚と触角とを結びつけて視覚へ至り、色彩は触角(描くこと)と視覚とを結びつけ、色の広がりとなり、そこを経て再び触角(見ること)にも繋がる。筆触ではそれらすべてが絡み合う。
筆触はけっして痕跡ではない。しかし記号(あるいはシニフィアン)にもなり切らない。筆触は、他の筆触との関係によってはじめて機能するが、その筆触が置かれる前、置かれるその時に、その関係はまだ決定していないし、それを置く画家も、その関係あり様を、行き先を、その意味を、知っているわけではない。おそらく、知っていたら描けない。画家は、自分の知らないことしか描けない。知らないことによってしか、描けない、と言うべきか。筆触は痕跡から記号へと移行するその中間で、意味以前の(無意味ではなく)意味の萌芽としてこそ機能する。ラカンは筆触を「身振り」と言い、それはかなりいい線いってるけど、充分ではない。
●制作には、割りと気軽にはいった方がいいみたいだ。気軽にはいっていけない時は、おそらく画面の状態か自分の状態がよくない。ただ、「やめてもいい状態」がくるまではやめられない。やめてもいい状態がやってくるまではけっしてやめない、というくらいの覚悟は必要。とはいえ、「やめてもいい状態」がいつまで経ってもやってこない場合は、おそらくやっていることが間違っているか、袋小路にはいってしまっている。そういう時は無理矢理切断するようにやめるか、一度画面を壊す必要がある。
様々な複雑なことがらが、上手く絡み合っている時、おそらく、画面はみかけとしては単純に見えているはずだ。あるいは、つくる意識として、すごく単純に行為しているはず。だから、自分のやっていることが過度に複雑になってしまっているように思えた時は、様々な事柄の間の繋がりを見失っている可能性が高い(行為自体が複雑になるのではなく、複雑なものごとを束ねる繋がりや関連性を「掴んで」いることが重要)。いったん考え直して、別のアプローチを考えた方がいいというしるしかも。逆に、やっていることが単調になると、描くこと自体が退屈になって飽きがくる。ただ、行為にのめり込み過ぎていると、この「なんかつまんねえなあ」という「飽き」の感じを捉え損なう。制作する時、飽きっぽいということはとても重要。
●昨日のニュースで、ドイツで三万五千年前につくられた人体像が発見されたというのを観た。今、ぼくがやっていることも、三万五千年前にその人体像をつくった人がやっていたことも、その間にはそれほど大きな隔たりはないはず。
●今日は午後からは、多少は「お金を生む」ことがはじめから分かっていることをはじめる。そろそろやらないと、すぐにとても困ったことになる。
●夜はNHKの、「世界ふれあい街歩き」を観た。ベトナムホーチミンを映し出すカメラ。あまりに素晴らしい風景で、身を乗り出して、番組の間じゅうずっと凝視してしまう。それにしても、カメラに映された風景や光というのは、何故こんなに魅惑的なのか。おそらく、実際にそこへ行って歩くよりも、カメラに撮られた映像を観る方が魅惑的なのではないだろうか(ベトナム戦争によって残されたものが、今では、最高の観光資源になっているとか、そういうのを観ると、なんとも複雑な気持ちになるのだが)。現地に行ったわけではなく、たんにスタジオでマイクに向かって喋っているだけのはずのナレーター(田畑智子)が、画面に写っている人に向かって別れ際に口にする「さようなら」という言葉に、何故かとても寂しいというか、悲しい気持ちになって、心が揺さぶられてしまうのも、とても不思議な感じだ。さようなら、もう二度とあなたにお目にかかることはないでしょう、という気持ち。たんに映像を通して見ただけで、一度も会ってはいないあなたと、生きているうちには、おそらくもう二度と会うことはないのでしょう。再放送を観れば(あるいは録画しておけば)、もう一度会えるのだが、そういうことともちょっと違う気がする。遠くにいる人を映し出す映像によって生まれる、死を先取りするかのような、感情。この「さようなら」が、自分から発せられるのではなく、ナレーターの言葉(声)であることが、この感情をいっそう際立たせる。