●ギャラリーαMに展示されている中原浩大の作品は、言ってみればマティスの「赤い部屋」を三次元化したような作品だとも言える。
マティスの「赤い部屋」では、テーブルクロスから壁紙へと繋がる蔦や鉢植えの模様(平面)に、半ば、三次元化した実体をもつもののような厚みが与えられ、一方、椅子、テーブルやその上にある静物、人物といった三次元の実体をもつものが、半ば二次元化(平面化)されて描かれていて、三次元化された二次元のもの(虚像)と二次元化された三次元のもの(実像)とが、二次元とか三次元とか言うことの出来ない、独自の表情をもつ「赤」から滲み出す、「赤」のひろがりという空間性のなかで同等の強さをもって併置される。しかしここで、模様と実体とは混ざり合うことはなく、模様はあくまで青(寒色)のグラデーションと黒のみで描かれ、実体のあるものは暖色(+、白と黒)で描かれる。
中原浩大の作品では、三次元のものでもあり二次元のものでもあるような、ちょっとした厚みをもつ、緑色の太い毛糸で編まれた植物のような形態が、蔦のように空間全体にひろがることで、三次元空間を絵画化(半ば二次元化)する。そして、壁全体が赤く塗られるのではなく、色彩(赤)は、その絵画化された空間のなかで異物のように突出する二つの球体の半面に閉じこめれらる。このことがこの作品のキモであり、もし、文字通りに、壁一面が赤く塗られていたりしたら、とても安易でつまらないインスタレーションにしかならない。
マティスの「赤い部屋」は、赤い広がりをもつ室内の空間と、もう一つ、緑(+青)のひろがりをもつ窓の外との空間に仕切られている。窓の外の空間は、室内以上にあからさまに平面化(というか、平板化)されて描かれている。この、(ほぼ完全に平板化されている)赤とは補色関係にある緑の屋外の風景によって、その、室内とは異質な空間から「見返される」ことによって、室内の「赤のひろがり」としての空間にぐっと厚みが増すのだ。
この絵でもっとも重要なのは、半ば平面化された室内の空間と、ほほ完全に平板化されている屋外の風景との間にあって、二つの異なる次元を分離しつつ繋げてもいる、窓枠の厚みと、そのすぐ近くにある植え込みのボリュームなのだ。「赤い部屋」という全体的に平面的な絵のなかで、窓枠だけが、はっきりとした三次元的な厚さ(幅)をもったものとして描かれ、そして、そのすぐ近くにある植え込みの植物だけが、異様なまでにごろっとしたボリュームを与えられている。この、中間に異物のように挿入された三次元的な空間によって、この絵の二つの平面的な空間の関係(色彩のひろがりと対比による空間性)は支えられている。「赤い部屋」が、たんなる色彩のハーモニーだけの絵に終らず、平板で装飾的な作品となることなく、ある厚み(それは「違和感」と言い換えてもよいだろう)を常に感じさせ、観る側の感覚を刺激し、動揺させつづけるのは、平面的空間のなかの歪みとして仕込まれた三次元的な厚さなのだ。
それと同様のことが、中原浩大の作品の二つの球体にも言える。蔦のように増殖することで、三次元的な空間を半ば二次元化させ、三次元と二次元とを和解させ、なめらかに繋ぐかのような毛糸で編まれた形態に対し、あくまで、三次元と二次元とを分離させようとする球体がごろっと置かれる。そして、空間全体にひろがる緑色に対し、それと補色関係にある赤は、球体の半面に、まるで封印されるかのように押し込められている。しかしこの封印された赤は、我々が実際に「今」「見て」いる画廊空間を反転させた、反世界の側(それは、球体の側からの視覚と言える)、我々が「そこ」から「見られている」側からの視点に立てば、赤はまるで眼球に直接貼り付いて、世界全体に広がっているかのようであるはずなのだ。画廊空間に置かれた二つの球体は、そのような反対側からの視点を、あるいは反転された(反)世界を、作品を見ている観者に想起させるような力をもち、そして、そのような潜在的な視点こそが、今、見ている、空間の広がりを活性化させ、そこに厚み=違和感を常に付与するのだ。