●「大事なことは言葉では言えない」という言葉を、ただ「言葉」としてだけみるならば、バカみたいに安直で下らない言葉だと言える。しかし、実際に、大事なことがまったく言葉では伝わらないという場面を経験した者にとっては、その下らない言葉が、言葉としての下らなさを超えてリアルな触感を持つ。言葉で何かを言おうとする時に、「大事なことは言葉では言えない」という言葉のリアルな感触を「言葉の外」の経験として持たないとしたら、その言葉は結局言葉の内側だけのことでしかなくなり、言葉で何かを言うことの切実なリアルさをもつことはないだろう。「大事なことは言葉では言えない」という言葉の下らなさとは、実際に伝わらなかった個々の場面の固有な、それぞれに異なった質をまったく表現できてないからであり、それを一般的な「ことわざ」や「キーワード」のようにしてしまっているからであるのだが、しかし同時に、そうであったとしても、人は繰り返しそれを言わないわけにはいかない現場に遭遇するのだし、その度に「大事なことは言葉では言えない」と思わず口にするしかない。それはほとんどため息と同義の言葉であろう。そして実は言葉とは、「大事なことは言葉では言えない」というため息の漏れる場所でこそ、はじめて切実に要請され、はじめてその重要性が実感される。すべてはそこからはじまる。
●結局は、「大事なことは言葉では言えない」にしても、それでも、それだからこそ、言葉で何かを言うために人は努力や工夫を始めるのだが、しかしその努力は(コミニュケーション行為としては過剰すぎる行為であるため)必然的に「内向的」にならざるを得ず、それは他者に何かを伝えるという行為から大きく逸脱をはじめるだろう。しかしそこでも、内向的で孤独な努力を支えるのは、他者へと向かう指向性であり、つまりは、他者への「あこがれ」と「畏怖」であるように思われる。しかし結局は、「大事なことは言葉では言えない」のであり、その孤独な努力は、ほぼ必然的に幻滅という感情を自身の内部に抱え込むことになる。言葉への幻滅は、同時に他者(への「あこがれ」)への幻滅ともなる。この幻滅は必然的であり、幻滅を伴わない言葉はなく、幻滅を伴わない「あこがれ」もない。だから、言葉を使うすべての人は必然的にニヒリスティックであろう。しかし、にもかかわらず、どうせ伝わらないのだから、はじめから「通りのよい言葉」だけを発することにした方が、自分にとっても他人にとっても利益に叶うし好都合なのだという、功利的、戦略的な行為-判断のみで生きることは、おそらく不可能であろう。幸か不幸か、人間にとって他者への指向性(「あこがれ」と「畏怖」)は消えることがなく、それは再び回帰し、従って、「大事にことは言葉では言えない」にもかかわらず、そうだからこそ、「言葉」への欲望は(絶望を内包したものとして)ふたたび蘇る。そして、自分自身を超え、具体的な他者をも超えたより大きくて高貴なものへの(世界そのものへの?)信仰は、おそらくここから(おそらく「言葉」によって、他者への「あこがれ」と「畏怖」を媒介として)はじまる。繰り返し、何度も、何度も、はじまる。
●まあ、それはそれとして、稀に、拍子抜するほどすんなりと伝わってしまうこともある。えっ、と思い、ほんとに、と思う。それはとても幸福なことだ。そして、そのような幸福によってなんとか生き延びられたりする。
●水道橋のUP FIELD GALLERYの、坂本政十賜、山方伸・展(6月2日まで http://d.hatena.ne.jp/blepharisma/20090515)がとても面白かった。つくづく、写真というのはとても気持ち悪いものだと思った。気持ち悪いからこそ、いつまでもじっと見つめてしまう。それが面白い。ごく単純な話として、写真にはいろんな「もの」が映っている。その、映っているものの表情を見ているだけで飽きない。そして、その「ものの表情」は、普通に裸眼でみているものとは違って、時間がとまっているから、どうしても見え過ぎてしまう。その見え過ぎてしまう感じこそが気持ち悪く、しかしそこに魅了されてしまい、それが面白いのではないか。
例えば、山方伸の写真は、ごく普通に風景を撮ったモノクロ写真なのに、一個一個のものが、別の場所から切り取られて、コラージュされたみたいにバラバラに見える。空間が繋がっていない感じなのだ。すべてのものに均等にピントが合っているわけでもなく、個々のものが並列的に配置されているわけではない。構図としてはむしろ、手前のものから奥のものへの距離が大きくとられた、パースペクティブを強調したような構図なのに、それらがつながって見えず、フラットにべったりして見える。これがものすごく不思議な感じなのだ。手前と奥との距離が構図的には強調され、地形的にも、多くの写真で高低の落差が強調されている。つまり、空間がダイナミックに構成されている。しかしそれが、空間として連続したものとは感じられず、バラバラなものが寄せ集められたかのように見える。空間が潰されていて、ものの表情がひしめいている。しかし、とはいっても、その(ある意味、絵画的な)構図はひとつの連続した空間を示していて遠近法的な齟齬はないので、その、表情がひしめいている感じと、空間がちゃんと表象されている感じとが、頭のなかで相容れないまま同居して、その、ごく普通の視覚ではあり得ない状態が成立していることが、すごく不思議で、だからつい見入ってしまうのだと思う。そして、そのような状態にある写真では、例えば、構図の手前に見えるテントの屋根に出来た一時的なシミと、そのはるか後方にがっしりとそびえる山とが、ほとんど同じ強さの実在感をもって見えてしまうのだ。そびえる山を見るのと同等な感触で、テントのシミをも見入ってしまう。それはやはり、かなり異常な視覚で、気持ちの悪いことだ。そしてそれこそが写真というものの感触なのではないだろうか。それがとても面白い。
坂本政十賜のカラーによる風景写真は、山方伸とは違って、平板な広がりを感じさせる平らな風景だ。山方伸の写真が、主に田舎の(匿名的な)どこでもないどこかを感じさせる(どこにでもありそうなのに辿り着けそうもない感じ)のに対し、坂本政十賜の写真は都市の風景であり、何処だと特定出来る(あるいは、出来そうに思える)感じがする。そしてそこには人が映っている。写真に人が映っている。それも、撮られていると意識していない、中途半端なポーズというか、仕草で、ある日、ある時、たまたまそこを通りかかった人が、そのままの姿でフリーズされていることの不思議さ。背景にはありふれた都市の風景があり、その風景は、いつでも、そこに、そのようにしてある、という、一種堂々とした感じがあるのに、そこをたまたま通りかかった人物は、頼りなく、何の支えも後ろ盾もなく、「偶然」という言葉が形象化されたものであるかのようだ。例えばある写真では、駐車場とその前の歩道と車道、その背景の住宅などが映っていて、そこに、歩道を歩く女性と、今まさに、車から降りて、駐車場から歩道へと移動している女性が映っている。風景は、当分の間はいつでも、ほぼ変わらずそのようにしてあるだろうが、この二人の人物が、この位置、このポーズで存在しているのは、たまたまこの写真が撮られたこの時だけだろう。つまりこの写真には、複数の、ことなるリズムで流れる時間が同時に映されている。そして、ここに映された人が、このような状態でいることは、おそらく今後二度とないのだし、この人たちは、この時、このようにここを通ったことさえ、今では意識さえしていないかも知れないのだ(それと同様に、数十年後にはこの背景となる風景も、まるっきり様変わりし消え去ってしまうのだろう)。しかしこの写真は、その姿をこうして定着してしまっている。それは何か、人間を超えた過剰過ぎる記憶であるかのようだ。そしてそれを(その「時」を)「見て」しまうのだ。それはどこか、人間の知覚を逸脱してしまっている知覚のように感じられる。それを見てしまうことには、常に押さえ難い動揺がつきまとう。