●昨日のことになるけど、いつも行く喫茶店にはおどろくほど客がいなかった。この店に、こんなに客がいないのは見たことがない、というくらい。閉店前二時間くらいは、完全に客がぼく一人になった。たった一人の客が、コーヒー一杯で長時間粘る自分であることが申し訳なく思えた。もし、ぼくがさっさと帰れば、店長はバイトに、「今日はお客さん少ないからもうあがっていいよ、タイムカードは時間が来たら私が押しておくから」と言うかもしれない。そのようにして予想外に生まれた一、二時間は、とても良い時間となるだろう。普段は店でしか顔をあわせないバイトの人たちが、じゃあちょっと、一緒にカラオケでも行こうか、ってことになるかもしれない。あるいは、帰りにぶらっと本屋に寄って、普段は読まない小説でも、たまには読んでみようか、って気持ちにもなるかもしれない。しかしそうであるにもかかわらず、ぼくは無配慮にも閉店ちかくまで粘って仕事をつづけさせてもらった。良い時間となるかもしれなかった可能性をつぶされてしまったバイトの皆様、ごめんなさい。でもぼくもいっぱいいっぱいなので…。こうやって「余裕のなさ」は連鎖してゆくのかもしれない。帰ってテレビをつけるとサッカーをやっていて、ああ、みんなこれを観るために家にいるのか、と思った。でもぼくは、吉川ひなのギャル曽根アムステルダムへ旅行する番組を観た。今のぼくは、スポーツよりも風景を見たい。あるいは、スポーツよりも動物の動きを見たい。カラスの動き、スズメの動き、蝶の動き、蜂の動き、フナの動き、猫の動き、犬の動き、散歩をしていても、そういうものに見とれてしまう。画家として、死ぬ前に一度はオランダに行きたいと思うが、いろいろといっぱいいっぱいである今のぼくにはそういうことがとても遠いことに感じられてしまう。「吉川ひなの(29)」というテロップが出て、吉川ひなのがもう二十九歳なのだという事実に、軽い衝撃をうける。
●貧乏は想像力を貧しくするかも。というか、リアルじゃなくする。例えば、テレビを観ていて、アムステルダムに行きたいとか、ホーチミンに行きたいとか思っても、いまのぼくには、具体的に(経済的に)「行ける手だて」をたてようがないから、その「行きたい」という欲望それ自体が、どこか嘘くさいというか、ほんとにそう思ってんの?、と、自分自身に対して懐疑的になってしまう。行こうと思えばいつでも、いや、仕事を整理してこの夏にでも、ではさっそく資料をあつめて、お金が必要だから生活も切り詰めてバイトのシフトの増やして、うーん、でもけっきょく、いろいろ都合があってやっぱ行けなかった、というのであれば、その「行きたい」という欲望に具体的な手触りがあると思うのだが、「行きたい」と思うよりもはやく「どうせ行けないでしょう」という現実(あきらめ)がやってきて、でも形だけでも一応「行きたい」と思っとこう、みたいになると、ほんとに我ながら嘘くさい。そういうの最悪だ。でも、映像を実際に観ているその時に起動する「行きたい」はけっして嘘ではないはずで、最低限そこのところは粘って確保しとかないと、とも思う。無意識に人を縛ってるのフレームを突破するような強い力が、ぼくのなかに発生する瞬間もあるかもしれないのだから。
●人に貸していた『にほんかいいもうとといぬ』のDVDが戻ってきたので久しぶりに観たら、やっぱり凄かった。こういう衝撃、刺激によって、ぼくはなんとか生きていける。すぐに別の人に貸すので、またしばらくの間会えなくなってしまうのだが。でも、これは一人でも多くの人に観てもらいたいので、押し付けるように人に貸す。
●今日は晴れた。昨日、けっこう遅くまで起きていたのに、朝早く目が覚めた。午前中は書き物。昼頃、少しうとうとしかけたら、郵便屋さんに起こされる。なのでもう少し書き物。散歩にゆく。鳥の動きを追うため、上ばかり見て歩く。帰ってあらためて少し寝る。また書き物。また少し寝る。喫茶店へ行って閉店までもうひとつ別の仕事。
夜遅くに帰ってきてやけに腹が減っていると思ったら、朝からまったく何も食べていないことに気づいた。睡眠のリズムがぐちゃぐちゃになっているから、食事をすることを忘れてしまっていた。そして深夜のドカ食い…。