●『ジーザス・サン』(デニス・ジョンソン)の、六章めの「緊急」までを読み返した。ここまでは、すごく面白い。ところで、この本には短編集と書いてあるけど、ぼくには『ジーザス・サン』というタイトルのひとつの小説としてしか読めない。それは、どの章の主人公も皆、「ド阿呆(ファックヘッド)」と呼ばれているとか、「保釈中」に出ているジャック・ホテルという人物が、次の「ダンダン」にも登場するとか、時間は前後しているけど、全体としてだんだん更生して行くみたいな流れになっている、ということもあるけど、なにより大きいのは、この小説のなかで唯一、具体的な年代が書き込まれているのが、11章あるうちのちょうど真ん中の6章めに置かれた「緊急」の冒頭だけだということだろう。あきらかに意図的に、小説の真ん中に年代を書き入れ、それ以外の場所には主人公の年齢は書かれても、年代は書かれず、その中心にある年代と年齢からの距離によって、それぞれの章の年代が推測されるように配置されている。だから、たんに連作集というだけでなく、これ以外の配列は考えられないように構成されていると思われる。だからこそ、最終章といってよい「ベヴァリー・ホーム」が、あのような「分かり易い落としどころ」みたいな書かれ方をしてしまうのだろう。だが、とはいっても、読者としては、面白いところだけ繰り返し読めばよいのだと思うけど(そういう読み方が可能であるような書かれ方をしている)。
最後の「ベヴァリー・ホーム」が良くない一番の原因は、主人公の《俺》の更生のきっかけとして、ベヴァリー・ホームという老人病院での勤務と並行して、アーミッシュだかメノナイトだかの夫婦の、つつましくも揺るぎないようにみえる生活が、主人公がそれを「覗く」という形で、主人公のあり様と対比的に捉えられているというところにあると思う。この対比的な構造は、なんというか、小説の構成としてあまりに紋切り型だ。しかもそれが、主人公とは完全に切り離された場所での(上演されているかのような)出来事であり、さらにそれは、「覗き」見られるのであるから主人公以外にそれを見る(共有する)者がいないという閉ざされた場所で行われているということが内面描写の代替物のように機能し、それがまた、思わせぶりな紋切り型を増長させるのだ。このような対比的な静的構造を(事前に)取り入れてしまったことが、それまでこの小説を支えてきた風通しのよさの一切を奪ってしまっているように思えた。主人公が覗き見る夫婦の妻の顔の表情の、《この人は悲しんでいるにちがいない》と《俺》に確信させる部分の描写の大袈裟な芝居じみた嘘っぽさと、例えば、「緊急」で雪のなかで見られるドライブインシアターの天使の描写の開かれた感じとが、いかに違っていることだろうか。
あるいは、この章に出て来る、《俺》がその時期につきあっていたとされる《地中海風の瞳》をもつ《こびと》の女性の形象が、なんと文学的で薄っぺらなイラストレーションのように感じられてしまうことか。もしかすると、デニス・ジョンソンは実際にそのような女生と交際していたのかもしれないのだが、だとしても、「書かれ方」がイラストレーション的なのだ。それは例えば「仕事」の最後の方に唐突に出て来る、ヴァインという酒場で働いている女性を描き出すすばらしい筆致と、同じ作家の同じ小説で、何故こんなにも違ってしまうのか、と思う。
《そこで酒を注いでいたのは、誰あろう、俺がいまどうしても名前を思い出せずにいる女だった。でも女の酒の注ぎ方は覚えている。それはまるで、金を倍にしてくれるみたいな注ぎ方だった。雇い主を金持ちにする女じゃなかった。言うまでもなく、彼女は俺たちに崇拝されていた。》
たんに、景気良く、惜しみなく酒を注いでくれる名前も覚えていない女がいた、というだけなのだが、他にこれといって行く場所のない《俺》がどうしようもなくいつも行く酒場で、そこにいる女が惜しげもなく酒を注いでくれるとしたら、それだけで、自分がその場所から祝福され、世界そのものから受け入れられているような気持ちになるだろう。だからこそ(名前も覚えられていない)彼女は、崇拝されているのだ。この女はまた再び、小説の結びに唐突にあらわれる。
《ずっとあと、つい数年前に、俺は彼女を見かけた。俺がにっこり笑うと、俺が言い寄ってこようとしていると彼女は思ったみたいだった。でも俺はただ覚えているだけだった。俺は絶対君を忘れない。君の亭主は延長コードで君を殴り、バスは走り去って君は泣きながら立ち尽くすだろう。でも君は俺の母親だったのだ。》
これだけの文章で、時間の構造がすごく複雑なのだが、それは置いておくとして、ここで《俺はただ覚えているだけだった》という言葉のすばらしさに痺れずにはいられない。この一言は、それだけでこの小説の最良の部分を言い表しているように思われる。この小説では、《俺はただ覚えているだけだった》ということだけが、繰り返し書かれているように思われる。その部分こそが面白い。名前は覚えていないけど、その《酒の次ぎ方》は《絶対忘れない》、それは、《俺》に幸福な感情を与えてくれたことへの感謝を《絶対に忘れない》ということで、それがつまり、(名前は忘れても)《俺は絶対君を忘れない》ということなのだ。そしてさらに、最後に唐突過ぎるほど唐突に書かれる《君は俺の母親だったのだ》、という言葉。驚くべきことに、ほとんど意味不明のこの言葉でこの章は終ってしまうのだ。おそらく《俺》は、彼女のことをずっとそのように思っていたというわけではないだろう。たまたま彼女のことを思い出していた今、この文章を、ここまで書き連ねてきた今、何の根拠もなく唐突に、ヴァインでの幸福な時間の記憶と共に、《君は俺の母親だった》と思うに至ったのだろう。その思いは、次の瞬間にはもう消えてしまっているかもしれない。しかしだからこそ、今、そのように感じたということは絶対的にリアルなのだ。「ベヴァリー・ホーム」には、そのようなリアルな瞬間が一度もないように思われる。