●最近ちょっとだけ、『神霊狩』というアニメにはまっている。かなり以前に、DVDの一巻分だけを観て、あまり面白いと思えなくてそのままだったのだが、気まぐれから、改めて観てみようと思って観たら、けっこう面白かった。素晴らしく面白くて引き込まれたというのではなく、へーっ、案外悪くないじゃん、みたいな感じでつづけて観ていくうちに、ちょっとずつ面白くなってきたという感じ。一つ一つの要素を挙げてゆけば、とりたてて面白いところはないのだが、その各要素の関連のさせ方が面白い。
おそらく九州北部を想定している(いわくありげな)地方の村に、三人の外傷を抱えた少年がいて、その三人の少年のそれぞれの外傷に惹き付けられるように、様々な物語の要素が寄せ集められる。その要素の一つ一つをみれば、それはいかにもありがちなもので、特にどうということはない。アニメーション技術というか、視覚的な要素としても、特に見るべきものはないと思う(絵柄は、初期の石森章太郎を思わせる)。民俗学脳科学量子論の知見なども、かなりわざとらしく利用される(これが最初、ちょっとうざい)。しかしそれらの科学的知見は、物語の説明となったり、根拠となったりするのではなく、物語のある側面に光を当てはするが、とてもじゃないけどその全てを説明するには足りない、という役割を与えられるに過ぎない。
このアニメの面白いところはまさにそこで、様々な物語の要素が雑多にかき集められるのだが、そのどれもがこれといった決定打とはならず、そのどれもが作品の核にはなり得ず、そのどれもがはかばかしく発展するということもない。ぼくは今のところ、DVDで六巻分、18話まで観ているのだが、残りあと4話を残すここまできてようやく、物語の収束の気配が少しだけ見えてきたに過ぎない。というかそもそも、このアニメは、物語の要素ばかりが増えて、物語としてはまったく展開しないままで18話まで来てしまっているのだ。物語の要素は、展開することなく、ただたゆたうように広がって、別の要素とゆるい関連をもち、そのネットワークをじわじわ広げてゆく。18話までの流れは、だいたいそんな感じなのだった。しかし、物語要素間にはり巡らされるネットワークによって、何かしらの驚くべき図柄が浮かび上がるというのでもない。いろいろな要素が少しずつ関連性をみせはするのだが、かといって、それで何かしらの秘密が明らかになるわけではなく、現実がそうであるように、何かが分かったようでいて、しかしその図柄はどこかが欠けていて、完全には理解されないまま、納得し切れないうちに、別の闇へと繋がってしまう。つまり、何も、発展もしなければ解決もしない。では、どうなっているのかと言えば、少しずつ作品世界が「煮詰まって」、緊迫の度合いが増してくるのだ。そして、少しずつじわじわ作品世界が煮詰まってくる過程を通して、「脳の内側と外側が繋がってしまっている」ような、気味の悪い「出口なし」という感触が、ある瞬間にふわっと、リアルにたちあがってくる。この、けっして焦ることも急ぐことも、ものごとを安易に解決することもない、じわじわの進行具合がとても面白いのだ。そして、それが妙に気持ち悪い
●一昨日から読んでいる小説、今日は昨日のリベンジで、終盤の、原稿用紙にすると20〜25枚くらいのところを、改めて一日かけてじっくりと読んだ。この小説の文章の「速さ」を思い知る。繰り返しになるが、それは場面転換や物語的時間の速さというだけではなく(そいうい意味でも速いのだが)、イメージが揺れ動いてゆく速さであり、イメージの運動の捉え難さのことだ。とはいえ、今日は少し、この小説の核心部分に近づけたように思う。絵も、沢山描けた。主人公の娘の顔が、どうしてもポニョに似てしまうのだが。