●「現代思想」6月号フーコー特集の佐々木中「この執拗な犬ども」は素晴らしかった。読んでいて、だんだん鼻息が荒くなって行くのが分かる。『夜戦と永遠』という本は素晴らしい本ではあるが、その第三部は、ぼくにはいまひとつよく理解出来なかった。例えば、第一部のラカンの部分ならば、ラカンを精密に読み込んで行くことを通して、ラカン自身によってラカンの理論が崩されてゆき、さらにその、ラカン自身によって崩されたラカンの先に、ラカンの別の姿、ラカンの別の可能性が、まったく別の風景がみえてくるという風になっていて、それこそが凄いのだが、第三部のフーコーは、フーコー自身によってフーコーが否定されてゆくというところまでは納得出来るのだが、ならば、フーコー自身によって否定されたフーコーの先に、新たなフーコーの(ポジティブな)何がみえてくるのかというところになると、そこが充分には(ぼくには)分からなくて、唐突に「ドゥルーズによるフーコー」(というか、端的にドゥルーズ)が導入されてしまうという感じで、丁寧に、執拗になされるフーコーの祖述と、その先にある結論のようなものの繋がりがよく納得出来なかったのだが(ほとんど唐突に出て来る「可視的なもの」と「言表可能なもの」との対比が、いまひとつよく理解出来なかった)、「この執拗な犬ども」を読むことによって、『夜戦と永遠』の第三部が、はじめて納得出来た。というか、この「執拗な犬ども」という形象によって、『夜戦と永遠』で描かれる、長々としたフーコーの祖述の必然性がはじめて理解され、さらにこの本で言われる「革命」という言葉が、はじめて説得力(と希望?、しかしこれを希望と言うことが許されるのだろうか?)をもって迫って来るように思われた。「この執拗な犬ども」とあわせて読むことで、『夜戦と永遠』は、それを「読む前」にはもう戻れないような、画期的な本となるように思う。「この執拗な犬ども」には、本当に勇気づけられるというか、興奮させられ、身を引き締めさせられた。また改めて(何度も)『夜戦と永遠』と「この執拗な犬ども」を、ぼくなりに自分の持てる全力を傾け、必死に食らいつくように、気合いを入れて読み返すことになるだろう。(でも、「文藝」の磯崎憲一郎『世紀の発見』の書評は、全然よくないと思うけど。)