●朝からずっと原稿。午後、思ったよりもちょっとはやく最後まで行けた。ちょっと一休み。夕方からぶらっと出かけた。
国分寺のswtch pointで井上文香・展(http://www.switch-point.com/2009/0913fumika.html)。はじめて観たけど、この画家のすごいところはトーンの正確さだと思う。ほとんどの画家は(ぼくもそうだが)、画面全体のトーンを、絵具をおきながら、画面をみながら、押したり引いたりというやりとりをしながら、すこしずつ「ぴたっと決まったところ」を探して行く。しかし、おそらくこの画家は、画面の、一番明るいところから一番暗いところまでのトーンの幅、様々な諸細部の彩度と明度の関係を、画面全体として一挙に掴むことが出来るのだと思う。これは、一見なんでもないのようでいてそう簡単に出来ることではないのだ。それはおそらく、パッと見たものを、写真のように記憶できる、というのに近い能力を持っているから出来ることなのではないだろうか。この画家の、トーンを捉える正確さがもっともよく分かるのが、展示作品中、唯一、夜を描いた絵だ。この絵は、ほかの昼間の光を描いた絵に比べればやや重たい色彩をもっているが、それほど極端に暗い色調の絵ではない。しかし、それを一目観れば「夜」だと分かる。それは、画面全体のトーンが、それぞれの部分のトーンの関係が、正確に「夜」のものであって、昼間のものと違うというところが捉えられているからだ。繰り返すが、これはなんでもないようでいて、誰にでも出来るということではないのだ。
こういう能力をもった人の絵は、正確なトーンにほぼ一直線で辿り着けてしまうので、下手をすると、単純に写真をトレースしたもののように見えてしまいがちだ。展示作品中にも、そのような危険を感じる作品もなくはない。しかしこの画家は、一方でトーンを正確に掴む能力と同時に、画面のなかの筆触を的確に位置づける能力もあって、つまり、筆触が、完全に(描かれるものの)イメージへと還元されきってしまうこともなく、しかし、(絵具の感触としての)筆触そのものとして見えてくることもない、簡単にどちらかには解決できない、イメージに奉仕すると同時に筆触そのものである、というか、イメージに完全には奉仕せず、かといって筆触そのものでもない、というか、そういう絶妙の地点へと筆触を着地させる能力をもつ。だから、よくある、ちょっとぼわっと、ふわっとした感じの、フォトリアリズム風の絵とも違う(そういう絵は、筆触が、筆触の位置付けが、正確ではないのだ)。イメージでも筆触でもない、その中間に「絵画」がたちあがる。観られてよかった。26日まで。
●地元の駅まで戻って、喫茶店で、もうひとつの原稿のために本を読む。本の余白に絵を描く。部屋へ戻ってテレビをつけたら「世界ふれあい街歩き」をやっていた。オデッサ。あの『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段オデッサなのだった。