ジャック・リヴェット『ランジェ侯爵夫人』をDVDで。リヴェットのコスチュームプレイでは『ジャンヌ』はイマイチだったし、リヴェット+パルザックという組み合わせでは『美しき諍い女』はイマイチだった。なので、コスプレ+パルザックっていうのはどうなのかと思っていたのだが、観てみると、最近のリヴェットとしては特に充実している作品のように思えた。とにかく、19世紀初頭風の装置や照明の空間のなか、その時代風の衣装の、ギヨーム・ドバルデューとジャンヌ・バリバールが一つのフレームのなかにいる、というだけで、「手術台の上でミシンとこうもり傘が出会う」というような感じで、それだけで面白い。つまり、ハマっていないところが面白い。ここには、物語を(それらしく、真に迫って、という意味で)リアルに映画によって再現するのではなく、テキストを映像と音声とで「上演する」という行為があるように思う。
ある建築物(ある空間、ある風景)を撮ること。そのなかで射す光、点される光を撮ること。そのなかで響く音を録ること。そのなかにいる人物を、その人物の動きを撮ること。その人物の喋る声を、その言葉を録ること。そこにある家具や調度品、その人物が着ている衣装を撮ること。映画とはそういうことで、それ以上でも以下でもないのだと思う。そして、それだけで充分に面白いのだし、そうであることこそが面白い。リヴェットの映画では、そこで動く人物は、自然に振る舞う人物ではなく、自らが映画の都合、カメラの都合によって動かされていることを意識している人物で、自ら演じているという自意識を持っていることを隠さない人物であろう。つまり、この映画のジャンヌ・バリバールは、ランジェ侯爵夫人を演じているというよりも、ランジェ侯爵夫人として設定された人物が動くような動きを動くジャンヌ・バリバールとして撮られているのだし、ランジェ公爵夫人として設定された人物が喋るとされる言葉を口にするジャンヌ・バリバールとして撮られているように見える。だから観客が観ているのは、ランジェ侯爵夫人のような衣装を着て、ランジェ公爵夫人であるかのように振る舞うジャンヌ・バリバールその人で、それはどこまでいってもジャンヌ・バリバールなのだ。それは、建築物、部屋、調度品、光、音、にしてもそうで、それらもすべて、あたかも19世紀初頭であるかのように振る舞う、しかし、撮影された2006年に存在する(存在した)、それらのものたちなのだ。コスチュームプレイの映画が面白いのは、そのしらじらしさによるのであり、その乖離(重ならなさ)によるのだと思う。
そして、この映画にあるのはそれだけではなくて、もう一つ、バルザックによるテキストが重要なのだと思う。この映画に中心には、間違いなく、バルザックによって書かれた偉大なテキストがあり、映像と音声とは、そのテキストに導かれて生まれている。テキスト(原作)がなければ、このような映像と音声はない。しかしもう一方で、映像と音声とは、たんに映像と音声であって、テキストそのものを代替することも、テキストそのものを擬態することも出来ない。我々が見るのはあくまで、ギヨーム・ドパルデューであり、ジャンヌ・バリバールであり、彼らの着ている衣装であり、二十一世紀の技術によって撮られた二十一世紀の物たちであって、モンリヴォーでもランジェ侯爵夫人でも、その「愛」そのものでも、十九世紀でもないし、テキストそのものでもない。映画が見せ、聴かせるのは、撮影された時にそこにあった具体的な物であり音である。しかし逆説的に、だからこそ、その明確な乖離によって、映像と音声は(時間の外にあるかのような)古典的テキストを「上演する」ことが出来るのではないだろうか。そのしらじらしさ、その遠さ、堅苦しさ、仰々しさ、単調な反復、表面的であること、みせかけでしかないこと、段取り的であること、機械仕掛けの人形芝居のようであること、魂が抜けていること、によって、その内部にテキストの魂のこだまを召還し、それを宿す余地が生まれるのではないだろうか。ある空間に地縛霊が宿るように。今まで繰り返されてきたリヴェットの映画の主題が、テキストと映画の関係のなかに入り込んでいるような映画。そのようなやり方で、この映画は、リヴェットの映画であると同時に、バルザックの魂の幾分かは確実に宿しているように思われる(『美しき諍い女』とは違って)。
●それにしても、古典のわけのわからなさというものがある。モリンヴォーは、あれだけ苦しみ、執着しつづけていて、必死でその居所を探り、修道院に忍び込んで誘拐さえしようとした女性が、既に死んでいたことを知ると、すぐさま、彼女との関係を「既に一編の詩のようなものだ」とかいって、簡単に過去にしてしまう(女性の遺体を海に沈めてしまおうとする)。この、過去となる時間への淡白さには、衝撃的なものがある。