●新宿へ。一時から編集者と打ち合わせ、三時からシアターモリエールでFICTION『ディンドンガー』。昨晩、ふと読み出してしまった『怪談徒然草』(加門七海)があまりに面白くて、ずっと朝まで読んでいてかなり寝不足で、さらに、これから演劇を観るにもかかわらず、打ち合わせの時にビールを飲んでしまった。『ディンドンガー』が終った後、ジュンク堂へ。福永信フェアの円城塔選書にある『記憶術』(フランセス・A・イエイツ)がずっと気になっていたのだが、六千円もする本なので、新宿に出るたびにジュンク堂に行ってパラパラと眺め、迷ったあげく結局は棚に返すということを繰り返していたのだが、フェアがもうすぐ終わりになってしまうことと、『ディンドンガー』がとても面白かったことの勢いにも押されて、買ってしまったのだった。
●FICTION『ディンドンガー』。出だしは、正直「うーん?」という感じだった。去年観た『しんせかい』は、とにかく破壊力が凄くて、新しい登場人物が一人追加わるごとに、(ほとんど出オチみたいに)その人物の衝撃がガツンとくる感じで、最初に出てきた覆面の少年が、訳の分からないところに連れていかれて、そこで、有無を言わさず分けの分からない展開になってゆくところは、ただ息をのんで見守るしかなくて、それを観て一年近く経った今でも、未だにあそこで何が起こったのかよく掴めていないくらいなのだった(ただ、その衝撃力が最後までは続かなかったと思うのだが)。それに比べ今回の『ディンドンガー』では、冒頭からいくつかの場面が暗転によって区切られて重ねられてゆくのだが、登場人物の衝撃力も、破壊的な展開もなく、その一つ一つの場面、一つ一つの細部は、決してつまらなくはないけど、でも特に面白くもないという感じで、うーん、困ったなあ、という感じで観ていたのだが、頭から袋を被った上半身裸で竹刀をもった人が出てきたあたりから、全体がふいに活気づいた感じがして(去年観た『しんせかい』の印象に引きずられていたぼくが、そこで「この作品」の波長とようやく同調出来た、ということかもしれないのだが)、そのすぐ後に、ピンクのレインコートを着て一輪車に乗った女の子が出てきた時には、おおーっと思って昂揚し、今後、この舞台の上で起こることごとくをすべて無条件で受け入れ、肯定すべきなのではないか、という思いにまで至ったのだった。実際、その一輪車でくるくる回る動きによって魔法がかけられたみたいに、その後、舞台で起こることの一つ一つがいちいち皆可笑しくて可笑しくて仕方がなくなり、そこから終わりまでずっと、もう箸が転がっても可笑しいという感じで、笑っているか、笑いをこらえているかどちらかだった。天井からぶら下がって、空調による空気の流れでゆらゆらしている「何か」でさえも、そのふらふらした動きが可笑しくてたまらなくなってしまったくらいだ。
この作品に対して、何かもっともらしいことを言ってもほとんど意味がないように思う。ただ、観ている時のこの幸福感は何なのだろうかと思う。ここで描かれている人々は、社会的、経済的にいえば最下層の人たちで、起こっていることも、ほとんど露悪的とさえ言っていいような悲惨なことばかりなのだが(そういう傾向の作品は最近少なくないのだが)、そうであるにもかかわらず、それを観ているぼくには、この世界がほとんどユートピアのようにみえてくるのだ。ほんとに卑小で、癖が強く、しょーもない人たちが、のっびきならない追いつめられた状況にあって、右往左往し、みっともなく取り乱したりするのだが、そこで人物たちのとる一つ一つのしょーもない行為のことごとくが、そのしょーもなさによって祝福されたものであるように感じられ、そして笑ってしまう。観ていて、自分がこの劇の登場人物の一人でないということに理不尽ささえ感じてしまう。『しんせかい』では、描かれる世界の不条理感は、地獄であると同時に天国でもあるような、その両極が混在しているような調子で、そこに衝撃的な強さがあったのだが(それを後半、無理矢理に分かり易い人情劇に回収しようという感じになってしまっていたと思うのだが)、『ディンドンガー』では全体に幸福の調子が強く支配的で(「えーっ」、と言われるかもしれないが、ぼくにはそう感じられた、ずっと雨降ってじめじめしてるのに!)、でも、それがわざとらしさや臭さそれ程につながらないのは、なんといっても一輪車の女の子の存在によるのだと感じる。この女の子の行為が、しょーもなさや卑小さを、そのまま、それとして祝福しているように思う。彼女と直接関わることのない、奥さんの死体を捨てにゆくおっさんさえも、一輪車の回転とレインコートのショッキングピンクと、何言ってるのかよく分からないその言葉によって、祝福されているようなのだ。
出だしがイマイチだと感じたのは、前の『しんせかい』では、新しく登場する人物は、その登場時のインパクトによって有無を言わせず登場人物として成立してしまうという感じだったのだが、『ディンドンガー』では、ある程度状況が説明されてはじめて、その人物が登場人物として成立するようになるという感じだからかもしれない。だから、いくつか場面が重ねられた後ではじめて、ある瞬間から、何かがぐぐっと動き出すのだと思う。いや、謎の生物(大、小)とか、全然説明されないのだから、説明という言い方は適当ではないかもしれない。バーンとくる登場時のインパクトというよりも、舞台に居続けて、細部が重ねられ、時間がたって馴染んでくることによって、徐々に登場人物として成立してゆくという感じというべきか。そのように、徐々に成立してゆく人物と、袋被った竹刀のおっさんとか、一輪車の女の子とかみたいに、登場した瞬間からパッと成立してしまう人物とが混在していて(時間差があって)、冒頭から少しずつ徐々に成立し、暖まっていった世界が、パッと瞬時に成立する人物の登場が引き金となって転がり始める、というのか。