●最近の天気予報の外れっぷりは気持ちがいいくらいだ。梅雨が明けたと言ってから梅雨みたいな天気がつづき、今週末は愚図ついた天気で、しばらくは夏らしい天気はないと言ったとたんに、この土日は晴れて暑かった。暑くて、しかも夏休みもはじまったので、喫茶店はとても混んでいて、ようやく隅っこの方に狭い席を見つけて、ゲラの直しをする。近くの席の大学生くらいの男性三人組が、偶然だとか宿命だとか決定論だとかの話をしていて、それが耳についてなかなか集中出来ない。一旦書き終わった、書いたばかりの自分の原稿を読み返すのはかなりの苦痛で、すべて廃棄してまるまる書き直したくなる。でもそれは、自分への幻想的な過大評価であって、けっきょくは書き直したってこれとそっくりそのままの原稿が出来上がるだけなのだ。きっと。
●制作していて、ここは、反省的な判断を介入させずに、この感じ、この勢いのままで一気に突っ切るべきだという場面と、先に行きたいのはやまやまだが、ちょっとこの雲行きは怪しい感じなので、無理矢理にでもこの流れは一旦切って、断層というか、空白の時間を挟んでから、改めて考え直すべきだという場面とがあって、しかしそれが案外、つくっているその場ではなかなか判断がつかないのだった(そのままつづけて手を入れるのと、一旦区切ってから手を入れるのとでは、同じ様なことをしたとしても、全然違うのだ)。これはほんとに難しくて、何度、あっ、行き過ぎてしまったと思い、あるいは、あのままもっと突っ切って行くべきだったと思って、後悔したことだろうか(なにしろ絵は、一筆入れてしまったら、それを完全に「無し」にすることは出来ないのだ)。でも、この後悔は作品をつくっている限りなくなることはなくて、この後悔を避けようと思うことが、もっとも危ないことなのかもしれない。
●実際、反省的な判断というのは、どの程度、制作される作品に介入可能なのだろうか。少なくともぼくの場合は、反省的な判断をまったく介入させずに制作することは不可能だ。でも、それが作品に一体どの程度影響を及ぼし得るのかということになると、懐疑的にならざるを得ない。作品の最も重要な部分は、意識的な操作ではどうすることも出来ない。あるいは、作品の重要な部分に「意識」を届かせるには、おそろしいほどの迂回路が必要なのだ。作品はいつも、すごく遠いところへの遠隔操作のようにしてつくるしかない。自分が今やっていることを遠いところへと繋げているはずの、きわめてあやふやでか細い通路のみが手がかりなのだ。しかしその通路が明確に見えているわけではない。それが本当に繋がっているのかどうかいつも不安だし、それが途切れてしまったと感じられる時には、まったく手の出し様がなくなってしまう。意識的、反省的に出来るのは、そのような遠いところへと繋がっているかもしれない通路を、手探りで探るということくらいだと思う。というか、作品をつくる、という時にやっていることとは、そのような、手探りするという行為のみ、ただそれだけだとさえ言える。いや、その手探りの行為は、実際に手を動かしている時だけではなく、少なくとも意識がある、起きている時のすべての時間を使ってしていることであるはずなのだ。
●そんなあやふやなことではなく、プロには明確な方法論や技術が必要だ、という人もいるかもしれない。ぼくだって、長くやってはいるのだから、人には負けない技術の一つや二つは持っていると思っている。でも、その技術が、いつも、どのような時でも、遠くへと繋がっているという保証はないのだ。技術の貴重さ、重要性を軽くみるつもりはない。「遠くへの繋がり」などというあやふやなことは、技術や段取りの精密さによってはじめて保証され得るものだ。ボールを遠くへ飛ばすためには、物理的にも理にかなった技術が必要であろう。しかしその技術の意味は、逆に、それが遠くへと繋がっていることのみによって保証されているとも言えるのだ。技術は技術そのものとして自律し得るが、すくなくとも芸術においては、遠くへの繋がりと切り離されて自律した技術に意味はない。技術は、その技術そのものの内部に遠くへの繋がりを保証するものを持たない。だからやはり、遠くへの指向こそが重要となる。しかし、その「遠く」とは、この世界とは別の世界への指向のことではなく、この世界の内部で、この世界そのものである「遠く」への指向なのだ。だから、もしかしたらその遠くとは「今、ここ」であるかもしれないのだ。
●昨日観たFICTIONの『ディンドンガー』が面白いのは、そのような意味で「今、ここ」にあるものを、「遠く」として出現させようとしているところにあるのではないか。それは突飛な世界であると同時に、ありふれた世界だ。確かに、謎の生物(大、小)とか、袋被った竹刀のおっさんとか、一輪車の女の子とか、一緒に住んでるヒゲ面で坊主頭の太った女性とか、極めて特異なキャラクターであるし、次に何をしでかすのかも予想できない。しかし同時に、彼らは別世界の存在ではなく、実はそこいらへんのどこにでもいる、ありふれた誰かであり、もしかしたら「私」かもしれない誰かでもある。普通に、人間は一人一人、みんなあのくらいは変なのだと思う。しかし、だからといって、それはおそらく「現実」をそのまま描いているのでもないように思う。実際、現実はそこまで幸福ではないし、切羽詰まってもいない。現実はもっと中途半端だ。それに、『ディンドンガー』には、困った人はたくさん出てきても、嫌な奴がまったく出て来ない。だからそれはリアルではないとか、現実は甘くないとか言うのもおかしい。それはおそらく、この世界のありふれた(?)風景のなかの、ありふれた(?)人々によって、この世界のあり得る別の可能性を、出現させようとしているのではないかと思っのだった。今、ここでありながら、同時に、もっと遠くの何処かであるような世界。それは、今、ここから切り離されてあるのではなく、見えないけど、今、こことぴったりと重なって、「そこ」にあるのかもしれないのだ。そのような世界に、どうやったら触れることが出来るのか、という風に作られているのではないだろうか。