●「ペナント」(磯崎憲一郎)。この小説が、この作家のいままでの作品とちょっと感触が異なるのは、そこに、子供と女性による力がほとんど作用していないというところにあるのではないか。その誕生によって自分の中心が自分の外側へと反転してしまうほどの力をもつ子供。畏怖の対象であるとともに崇拝の対象でもある妻。子供(私)の一生をあらかじめ把握しているかのような母。その性的な誘惑によって世界の磐石さを揺るがすかのような女たち。この作家の小説を強く揺り動かしてきた、そのような力たち。この小説では、そのような登場人物(主人公)を揺さぶる他者たちの強い磁力が後退し、ある一人の男の孤独な独白の調子が強くなっている。そして、そのことによって閉ざされるというよりも、他者による強大な力の作用と切り離されたところで、いままでの小説とは異なった回路が開け、そして、そちらの方向にもまた、この作家の別の可能性が広がっているという予感を感じさせる。
子供や妻や母の磁力圏から一時でも外れることで、この小説では、記憶と現在(まさに「今」)とが、それらを繋げる媒介なしで直接的に、より予測不能な形で繋がってしまう。そこでは、記憶=過去が現在に対してよりダイレクトに影響を与え、そしてまた現在も、過去=記憶へとダイレクトに影響を与えているようにみえる。登場人物を「現実」へと繋ぎ止めていた留金のような子供や妻、母などの磁力の後退(この小説で主人公はコートのボタンを無くすのだ)は、現在と記憶や幻想との関係をより自由に、つまり不安定にするように思う。それが、この作家の小説を貫いていた運命や宿命への楽観という調子、あるいは、あらゆることを時間が解決してくれるというような「大きなもの」への信頼という楽観的な調子の、その裏側で響いていた、運命への恐怖、あるいはその裏返しとしての、どちらへ転ぶか分からない(何が起こるか分からない)「現在」への恐怖、さらにはある種の「(生への)疲労」といった調子を顕在化しているように思われる。
とはいえ、恐怖が全体を支配しているというわけでもない。運命や現在への恐怖は、同時に、ユーモアと、世界と接する時の「心躍る」ようなわくわく感をも感じさせるものだ。虎に追いかけられるティッサ・メッテイヤは、確かに余裕のない恐怖に貫かれてはいるが、しかしそれは、結果として彼を林冠の世界へと導くものでもある(『肝心の子供』)、というような楽観は、この小説の根底にも存在しているようなのだ。生への疲労もまた、記憶の豊穣さという肯定的な側面をもつ(しかし記憶の過剰は恐怖でもあるのだが)。さらに、この小説で強い調子であらわれる「孤独」という感情もまた、それこそが自分自身を「林冠」や「古墳」のような世界へと導くものなのだという確信と共にあるように感じられる(例えばアリジゴクがそうであるように)。
いままでの作品のなかにも勿論響いてはいたが、それは常に、世界の磐石さや運命への楽観やより大きな存在への信頼との拮抗のもとに、その裏表としてあった、恐怖や孤独や疲労(倦怠)という感情がここでは前景化していて、それが、この小説に、以前とはやや違った種類の、世界の表情や運動-展開を招き入れているように感じられた。そしてそれは、『肝心の子供』のティッサ・メッテイヤとモーガラージャ、『世紀の発見』の《彼》とAとが散策する「森」の世界の、その一歩先にある世界でもあるように感じられた。
●以下、引用。「ペナント」より。
《「ヘビだな」少年は疑いのかけらもなく、瞬時に確信した。自分の確信があまりに強すぎて、他の可能性がまったく浮かんでこないもので、いまの自分はもしかしたらじつは既に眠りに落ちて、まともな思考が成り立たなくなってしまっているのではないかと不安になったほどだ。だが手のひらで頬を叩いて確かめるまでもなく、少年は眠ってなどいなかった。しっかりと覚醒していた。「ヘビだな」もう一度つぶやくなり、少年は掛け布団を右足の脛で思い切り蹴り上げた。背中を小さく丸め球体を転がす要領でいきおいをつけてベッドの上に立ち上がると、二度ほど軽く弾んで狙いを定めてから、そのまま高く飛び上がって、弧を描くように空中を駆け、直接机の上へと降り立った。いまや穴は少年のすぐ目の前にあった。すぐさま市松模様のシールを剥ぎ取り、穴を覗き込んだが、まるでそこは平面的な黒い塗りつぶしががあるだけのようにも見えた。「だが、逃げおおせるなどとは思うなよ」少年が左手を黒い塗りつぶしの中にねじ込んでみると、それはやはりふたたび穴なのだ。壁をつかんで力を混めて引っ張ってみた。漆喰の壁はびくともしなかった。今度は右手も添え、両手のひらで壁をしっかりとつかんで、少年の全体重をかけて引っ張りながら、同時に片足で壁を突っ張ってみた。ごく僅かな、少年本人ですらも気づかぬほどの小さな砂粒が机の上にバラバラと落ちた。呼吸を止めて、満身の力で少年は壁を引っ張りつづけた。少し離れた右の方で、割り箸が折れるような高い音がした。薄い箔のようなものが頭上から剥がれ始めるやいなや、轟音が上がり、壁は一気に崩れ落ちた。少しの時間、砂煙がこの部屋を満たした。ベッドの上には何十枚ものペナントが散らばっていた。少年も背中から床に叩きつけられて仰向けのまま呆然としていたが、我に返ってもう一度机へ駆け上がると、その高い位置から崩れ落ちた壁の後を凝視した。舞い上がる砂の残る中、そこに見たものは、銀色に輝くヘビの抜け殻だった。ひし形の鱗の一枚一枚や、細かな蛇腹までがはっきりと分かる、まるで本物のヘビとも見紛うほどの生き物めいた抜け殻だった。》