桜金造の怖い話は、最近、『桜金造のテレビで言えない怖い話』というDVDが出たみたいで、さらに、八月に『桜金造の本当にあった怖い話』、『金造怪談』という二本のDVDが出るみたいだ(新宿でのライブは、多分そのプロモーションのひとつなのだろう)。これは是非観たい。何故、桜金造の怪談は面白いのか。昨日の深夜、ツタヤで借りた稲川淳二の2000年から2001年にかけての年越し怪談ライブのDVDを観たのだが、こちらは、ごく普通に当たり前の「怪談」で、話芸としてすごく良く練られているとは思うものの、物語として人を納得させる形に整備されてしまっていて(つまり、とても通俗的で)、まったく面白くないというわけではないけど、桜金造みたいに、世界の不可解さに直接触れるような、独自な感触はあまり感じられなかった。おそらく、稲川淳二にも「何か」は見えているのだろうけど、その「見えた」ものを、「どのように語るのか」というのは決定的に重要なことで、語りを組み立てる時、その「語り」の形によっては、その過程で重要なものが失われてしまうのだ(稲川淳二の話は、世界の不可解さそのものよりも、観客への効果の方を向いているのだと思う)。まあ、不可解なことを、それなりに多くの人に納得出来る形式(感情の形式)に落とし込むことこそが、共同体の語り手の本来の役割だとは言えるのだろうけど。桜金造の話は(すべてではないにしても、そのいくつかは)、一見通俗的な怪談という形をとってはいても、そこに収まらない「何か」が整備されずにそのままごろっと残っている(それは、語りの不器用さ、言葉の足りなさ、そして、ある種の感情への無頓着さ、にもよるのだと思うけど)。だからおそらく桜金造は、怪談の語り手であると同時に「作家」であって、作家としての桜金造には、他の怪談の語り手とは違った、特別な何かがあって、その力によって、通俗的な怪談という形式が歪んで、そこにリアリティが宿るのだと思う。
ここ一ヶ月くらいずっと、基本的に「宇宙人好き系」である磯崎さんの小説を読みつづけていたので、ここへ来て急速に「幽霊」が恋しくなってきたのだと思う。
●追記。『ほんとうにあった怖い都市伝説』というDVDも、去年出たらしい。