●一番近くのツタヤにはなかったので、一駅隣りのツタヤまで行って『ほんとうにあった怖い都市伝説(2)』と『桜金造のテレビで言えない怖い話』を借りてくる。でも『都市伝説』の方は、桜金造がただ都市伝説を読み上げているだけで、桜金造の話というわけではなかった。『テレビで言えない…』の方も、半分くらいは人から聞いた話で、それは全然面白くない。特に、元Def Techの人(おそらく教団つながりなのだろうけど)から聞いたという911の話(と、それにつづく大阪の個室ビデオの話)は最悪で、これは絶対やっちゃ駄目なことだと思う(オカルトの最も危ういところで、これをやってしまうと、霊感商法と同じになってしまう)。DVDを観て思ったのは、桜金造の語りの不器用さと、物語の作り方の下手糞さだ。しかしそれが、彼の話の独自の感覚を生んでもいる。
基本的に、桜金造の話は「物語」になっていない。例えば「一ミリの女」の面白いところは、「一ミリの女がこちらを向く」というところ(可視化出来ないイメージ)に尽きているし、「京都のホテル」の話で面白いところは、落ち武者の幽霊に「次はお前だ」と言われて、頭を思い切り蹴られる(幽霊に蹴られる!)、というところに尽きている。「化け猫」の話だって、巨大な化け猫と「ぶつかった」というだけだ(普通、化け猫というイメージのもっているコノテーションと、それに「ぷつかる」という出来事はあまり結びつかない、化け猫が塗り壁化している)。ある流れのなかで、必然性のない特異なイメージがぼこっとあらわれ、それが何を意味するという説明がまったくない。だから、感情の解決がつかない。ごくありふれた「怪談」のフォーマットのなかに、そこから浮いている「変なこと」がいきなり起こって説明されないまま放置される。「京都のホテル」の話では、幽霊に蹴られた後、「結局、朝まで眠れませんでした」ということでその場面は終る。しかし、部屋に落ち武者の幽霊が沢山集まっていて、何か会議のようなことをしていて、金縛りにあって、そこでいきなり幽霊に頭を蹴られて、意識を失って気づいたら朝になっていたというなら分かるが、そのまま朝まで眠れないでいるのならば、当然、その後につづく朝までの時間(何かしらの事の顛末)があるはずなのだが、その「朝までの長い時間」はまったく説明されない。時間が消失してしまったかのように、その幽霊たちがその後どうなって、どのように消えたのかが語られない。物語として完結していないのだ。桜金造の話では、イメージとコノテーションの関係、時間の連続性(緊張と緩和)の感覚、物の縮尺の感覚が狂っている。
だが、「生き霊」の話と「海開き」の話には、時間の流れがあり、つまりいつくかの場面が重なることで意味が生まれている。
「生き霊」では、ある同一の女性の生き霊の三つの形が連続して示され、それが物語となる。しかしその物語は、霊の話というより、その女性といい感じだったのに結局上手くいかなかった(ぶっちゃけ、やれなかった)という話だ。三つの生き霊は、女性と親密になってゆく三つの段階に対応している。しかし、そのような現世的、世俗的な意味での連続性はあるのだが、生き霊のイメージには連続性がない。だから物語としていびつなのだ。
最初、一緒にお酒を飲んでいる時、女性がふっと姿勢を崩した(つまり、桜金造に対する警戒を緩めた)その瞬間に、女性の顔の後ろからもう一つの顔があらわれる。その顔は女性とそっくりであるが、男性であり、病気で亡くなったような顔をしている(このイメージは普通に考えれば生き霊ではなく守護霊か憑きものだろう)。紋切り型の解釈をすれば、それは女性が親密さと拒絶という相反する二つの表情を同時に見せたということで、このような女性のイメージ自体は紋切り型ですらあり、それほどは面白くない。しかしこの、ずるっとズレてあらわれるもう一つの顔というイメージの感触は、そのような紋切り型の解釈からわずかにすり抜けてゆくような、奇妙な感触が残すだろう。
次に、女性が部屋に遊びにきて、ソファに並んで座ってテレビを観ている。その時、女性が「あっ」と声を出し、そちらを見ると青いワンピースの女性がキッチンの方へすっと消えてゆく。それを見て女性は、「あれ、わたしだ」と言う(青いワンピースは彼女がもっとも気に入っている服だという)。これは三つのイメージのなかで最も(というか圧倒的に)面白いイメージなのだが、ここでドッペルゲンガーを見る女性はそれを平然と受け入れていて、つまり怖いのは分身(生き霊)であるよりもそれをすんなり受け入れる女性の方であろう。ここでも紋切り型に解釈するならば、親密になってゆくにつれて女性の意外な一面を知るようになり、同時に女性との仲が親密になって後戻り出来なくなってゆくことそのものへの恐怖のような感情が桜金造のなかに芽生え始めているということだろう。桜金造はこの女性のことがとても好きで、だからこそ親密になってゆくことそのものへの恐怖もあるのだ。その感情のうらはらな二極への乖離がこのようなイメージを生む、と。しかしそのような物語的に整合性のある解釈をはるかに越えて、このイメージ自体が独立してとても面白い。それに、最初に出てきた、女性にそっくりな男性の顔の霊と、この場面の生き霊とは、霊的なイメージとして何の関係もみられない。物語としては連続性、必然性はあるが、その霊的表現としては場当たり的でバラバラなのだ(霊能者だったら、この二つのイメージを、もっと人が納得し易い、あたかも因果関係が成立しているかのような形に加工して語るだろう)。その捩じれが面白いのと同時に、だからこそこのイメージそのものの面白さが、その感触が、物語に還元されないまま、そのままで手元に残る。
三つめのイメージ。二人はかなり親密になり、外で飲んで酔っぱらって、桜金造の部屋にゆく。二人はベッドに倒れ、さあこれからという時に、ベッドの脇の壁から巨大なデスマスクのような顔がガッと現れ、二人はベッドの外にまで吹き飛ばされる。これは、いままでのごく控えめな霊的イメージと違って、二人が性的な関係になることへの、非常に強い否定の意思のあらわれのように感じられる。そしてその巨大な顔はつぶやく。「どういうことか分からない」と。この巨大な顔は女性とは似ても似つかないが、そのつぶやく声は女性の声だったという。物語の文脈から見れば、この「どういうことか分からない」という言葉は明らかに性的な関係への拒絶の言葉で(そんなつもりじゃなかったのに、どうしてそういうことをするのか分からない)、桜金造はたんに関係を拒否されたのだ、と言う事も出来る。女性は、自らの言葉や態度とはまったく別の場所から、別のチャンネルから、桜金造へと拒絶を突きつけた(ここでも女性の二面性という話に着地可能だ)。あるいは、桜金造の方で、性的関係になることへのためらいと恐怖が無意識に常にあり、それが女性の声=言葉となって彼の脳内で響いた、とも解釈可能だろう(女性の二面性とは実は、男性による、女性への欲望の二面性の反映でもある)。このどちらかが流れとして自然だろう。しかしここで面白いのは、物語的な文脈を外してみると、それ自体として様々な意味を含み得る謎の呪文のような「どういうことなのか分からない」というごろっとした言葉が、声は女性のものであっても、どこから到来したのか分からない、無名の巨大な顔から発せられること、つまり、世界の外側から誰のものでもない「言葉」が、いきなり決定的な命令のように到来するという事態だろう。つまり、二人が性的な関係になることを拒否したのは二人の欲望ではなく、理不尽な「世界の掟」そのものであり、運命である、と。それは偶然といってもほとんど同じようなものであり、顔の巨大さと無表情は、人間の力ではどうしようもない非人情の大きな力を示している。
このDVDには収録されていないが、桜金造の怪談の一つに、幽霊なんているもんか、と言って墓場で遊んでいた少年時代の桜金造が、家に帰ってしばらくすると、喋っているという意識はないのに勝手に口が動いて何かをつぶやいていて、それは「いるよ」という言葉だった、という話もある。「いるよ、いるよ、いるよ…」とつぶやきつづけるコントロール不能の自分。ここでも、意識の外側から絶対的な言葉が自分自身の身に到来するという出来事が語られている。このような、連続的な時空の外にある絶対的な「掟の言葉」の到来は、幽霊好き系よりも宇宙人好き系にみられる特徴で、桜金造には、幽霊を語りながらもかなりの割合で宇宙人好き系が混じっていることを示していると思われる。このことが、桜金造の幽霊話に独自の感触と捩じれを生じさせているように思われる。桜金造においては、言葉の力の支配がとても強いのだ。
この話にあるのは、物語的な整合性と一見寄り添うかのような霊的なイメージや言葉が、しかし、その個々のそれ自体としての強さによって、物語を突き破ってそれぞれバラバラに自己主張し、実はその霊的なイメージや言葉の解決されない不可解さのリアリティこそが、凡庸とも言える物語にリアリティを与えていたのだ、ということではないだろうか。物語の流れのなかに三つの霊的イメージが配置される(整備される)のではなく、唐突に置かれる三つの霊的イメージの落差(関係のなさ)こそが、ある流れをつくり、物語を結果として生む。そしてこの話は、桜金造による「彼女のことは大好きだったんですが、それっきり会えなくなってしまいましたねえ」というような言葉で締めくくられる。このような過去の関係への悔恨の感情こそが、実は最もリアルなのかもしれないけど。